| おくのほそ道文学館収蔵 |
芭蕉一行は、6月3日手向に到着後、図司呂丸の案内で日の落ちた参道を登り、南谷別院にたどり着いた。到着から2日後の5日、断食して潔斎したのち首に注連を掛け羽黒権現に参拝。6日には、強力を伴い、浄衣、宝冠を身にした道者の姿にて月山に登拝した。一行は、山頂小屋に一宿し、翌7日、西の斜面を下って湯殿山神社に参拝。同日、南谷に戻り、鶴岡へ旅立つ10日まで滞在した。 |
元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日) |
| おくのほそ道 |
| 六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。 |
| 曽良随行日記 |
| 〇三日 天気吉。(中略)一リ半、厂川。ニリ半、羽黒手向。荒町。申ノ刻、近藤左吉ノ宅ニ着。本坊ヨリ帰リテ会ス。本坊若王寺別当執行代和交院ヘ、大石田平右衛門ヨリ状添。露丸子ヘ渡。本坊ヘ持参、再帰テ、南谷ヘ同道。祓川ノ辺ヨリクラク成。本坊ノ院居所也。 〇四日 天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。 |
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元禄2年(1689年)6月4日(新暦7月20日) |
| おくのほそ道 |
| 四日、本坊にをゐて誹諧興行。 有難や雪をかほらす南谷 |
| 曽良随行日記 |
| 〇四日
天気吉。昼時、本坊ヘ蕎切ニテ被招、会覚ニ謁ス。并南部殿御代参ノ僧浄教院・江州円入ニ会ス。俳、表計ニテ帰ル。三日ノ夜、希有観修坊釣雪逢。互ニ泣涕ヌ。 |
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| 歌仙「有難や」の巻 | ||||
| 羽黒山本坊ニおゐて興行 元禄二 六月四日 | ||||
| 有難や雪をかほらす風の音 住程人のむすぶ夏草 川船のつなに蛍を引立て 鵜の飛跡に見ゆる三日月 澄水に天の浮べる秋の風 北も南も碪打けり 眠りて昼のかげりに笠脱て 百里の旅を木曽の牛追 山つくす心に城の記をかゝん 斧持すくむ神木の森 歌よミのあと慕行宿なくて 豆うたぬ夜は何となく鬼 古御所を寺になしたる桧皮葺 糸に立枝にさまざまの萩 月見よと引起されて恥しき 髪あふがするうすものゝ露 まつはるゝ犬のかざしに花折て 的場のすえに咲る山吹 |
翁 露丸 曽良 釣雪 珠妙 梨水 雪 翁 丸 良 雪 丸 翁 水 良 翁 丸 雪 |
春を経し七ツの年の力石 汲でいたゞく醒ヶ井の水 足引のこしかた迄も捻蓑円 敵の門に二夜寝にけり かき消る夢は野中の地蔵にて 妻恋するか山犬の聲 薄雪は橡の枯葉の上寒く 湯の香に曇るあさ日淋しき むささびの音を狩宿に矢を矧て 篠かけしぼる夜終の法 月山の嵐の風ぞ骨にしむ 鍛冶が火残す稲づまのかげ 散かいの桐に見付し心太 鳴子をどろく片藪の窓 盗人に連添妹が身を泣て いのりもつきぬ関々の神 盃のさかなに流す花の浪 幕うち揚るつばくらの舞 |
翁 丸 円入 良 丸 蕉 水 丸 雪 入 良 水 丸 雪 翁 良 会覚 水 |
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| 芭蕉 七 梨水 五 露丸 八
円入 二 江州飯道寺 ソラ 六 会覚 一 本坊 釣雪 六 花洛 珠妙 一 南部法輪院 |
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| (曽良俳諧書留) | ||||
元禄2年(1689年)6月5日(新暦7月21日) |
| おくのほそ道 |
| 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。
延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。
「羽州黒山」を中略して「羽黒山と云」にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。
月山・湯殿を合て三山とす。
当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。
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| 曽良随行日記 |
| 〇五日 朝の間、小雨ス。昼ヨリ晴ル。昼迄断食シテ註連カク。夕飯過テ、先、羽黒ノ神前に詣。帰、俳、一折ニミチヌ。 |
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元禄2年(1689年)6月6日(新暦7月22日) |
| おくのほそ道 |
| 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。 |
| 曽良随行日記 |
| 〇六日 天気吉。登山。三リ、強清水、ニリ、平清水(ヒラシミツ)、ニリ、高清(高清水)、是迄馬足叶。道人家小ヤガケ也。彌陀原コヤ有。中食ス。是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成。御田有。行者戻リ、こや有。申ノ上尅、月山ニ至。先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル。雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。 〇本道寺へも、岩根沢へも行也。 |
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| 半合目 | 一合目 | 二合目 | 三合目 | 四合目 |
| 笠骨 | 海道坂 | 大満 | 神子坂 | 強清水 |
| 五合目 | 六合目 | 七合目 | 八合目 | 九合目 |
| 狩籠 | 平清水 | 合清水(旧高清水) | 弥陀ヶ原 | 仏生池 |
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笠骨から六合目の平清水まで、旧登山道は、月山高原ラインとほぼ同じルートをたどり、六合目からは、高原ラインが東から南へ大きく迂回するのに対して、旧道は、途中に七合目を置いてそのまま南東方向に直進し、八合目の手前でこれと交差する。 七合目は、その昔、騎馬で登った人の終着地点で、当所に100人以上泊まれる山小屋があったという。随行日記に「高清(高清水)、是迄馬足叶」と記され |
| ていることから、芭蕉も、七合目まで馬を利用した可能性が見込まれる。 ○「清川から月山まで」の地図を参照 一行は、高清水から八合目の弥陀ヶ原に到ると、まず月山中之宮に参詣をし、当所で昼食をとった後、引き続き、東の斜面を下り東補陀落に赴いた。当時は、これを順路とし、東補陀落で観音、弥陀、薬師の三尊や立岩の三宝荒神などを拝したのち弥陀ヶ原まで戻り、それから月山を目指したのだという。 高山植物の群生地として知られる弥陀ヶ原は御田ヶ原ともいい、標高1400m〜1500mのところに位置する。「弥陀」は、月山権現の本地が阿弥陀如来であることに因み、「御田」の称は、南北1km、東西0.6kmの湿原帯に「いろは四十八沼」と呼ばれる池塘(ちとう)があり、これに稲穂に似た実を付けるホンモンジスゲが生えることに由来する。 中之宮は、御田原神社が鎮座するところで、当所の山小屋(御田原参籠所)では食事ができるほか、宿泊施設も備えている。随行日記に「是ヨリフダラ、ニゴリ沢、御浜ナドヽ云ヘカケル也。難所成」と書かれている東補陀落は、修験者が峰入修行を行う秘所であり、絶壁を鉄梯子で下る難所の先に、弁財天を祭る御浜池がある。 |
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| 芭蕉一行は、東補陀落への巡礼から戻ると、再び、南方に高まる霊峰に向けて歩みを始めた。いよいよ「石原三里」の道筋に達すると、先人の言葉の通りに、大小の石が土を隠す石踏みの道となる。茂みの中で、思い思いにさえずる鶯(うぐいす)を聞きながら「無量坂」を登り、今来た道を振り返れば、眼下に、大小の池塘を点々と配置する弥陀ヶ原の佳景が、大きく広がる。 体の向きを戻して見る峰側も、また絶景である。広野原一面にチシマザサなどの低潅木を敷き詰める霊峰月山は、その奥の際(きわ)から徐々に大きく盛り上がり、その先に、山肌から三角に突き出した「一の岳」の頂き(標高1,679m)が見られる。20分ばかりを要して、これを正面の位置から次第に右へ移り見るように登り続ければ、「畳石」の普請坂を経て、仏生池のある九合目に到達する。 |
| 水神八大竜王や三十六童子の伝説を秘めた仏生池は、海抜1,720mのところにある周囲20mほどの小池で、クロサンショウウオの生息地として知られる。周辺は高山植物の宝庫で、トウゲブキやハクサンフウロなどが群生している。八合目の弥陀ヶ原からここまで、高低差300mを登り詰めるのに約1時間20分、山頂まで更に同程度の時間が必要となる。 真の頂きを背後に隠し、自らを頂上と「思わし」める「オモワシ山」(1,828m)の腹を、大石を踏みながら左に回れば、やがて、前方に「行者返し」の難所が見えてくる。昔、かの役行者が山頂を目指したときに、蜂子皇子に仕える除魔童子と金剛童子が現れて、修行が未熟であるからと押し戻したところと伝えられる。 この先の「モックラ坂」は、緩やかに傾斜した石敷きの坂道で、これを登り詰めるころ、前方右寄りに、ピラミッド型をした月山の頂きが見えてくる。標高1984mの頂点につづく稜線は極めて緩やかで、そこに木歩道が築かれている。これを端まで歩き、最後の岩石越えの道を踏破すれば、まもなく、「八方七口」から延びるすべての登拝道が、月山神社の絶頂で一つになる。 |
| 芭蕉が月山に足を踏み入れたのは、新暦で7月22日。このころ、月山は、まだ冬の名残りを失わず、山肌にかなりの雪を残している。こうした中、氷雪を踏みながら、浄衣に法冠、草鞋履きという装束で行われた登山は、まさに難行苦行で、「息絶身こゞえ」ながらの山頂到着となった。 随行日記では、その時間を「申ノ上尅(午後3時半ごろ)」としている。一方、「おくのほそ道」では「頂上に至れば、日没て月顕る」と記し、頂上に着いたところ、折から日が暮れて月が顕れたとしているので、到着時間は日没近くということになる。 これは、芭蕉が月山に登った日の六日月は、おおよそ、昼前に月が出て、日が没するにつれて南の空高くに鮮明となることから、芭蕉は、月山への到着を、次第に「月顕る」情景とからめて叙することを希望し、このため、到着時刻を3時間ばかり繰り下げることにしたものと思われる。 ○「雲の峰」の句について |
| 随行日記に「先、御室ヲ拝シテ、角兵衛小ヤニ至ル」とあり、芭蕉一行は、月山山頂に到着すると、まず「御室(おむろ)」に参拝した。「御室」は、現在の月山神社本宮のことで、強風を遮るため積石の塀で囲ってあることからこの称がある。神仏混淆期にあっては月山権現と言い、祭神を天照大神の弟神の月読命、その本地を阿弥陀如来とした。神仏分離後は月山神社とその称を変えたが、「御室」には今も阿弥陀如来の石像が安置されている。 参拝後に向った「角兵衛小ヤ」は、当時山頂に7軒あった小屋の1つで、7軒の内訳は5軒が宿泊用、残りは酒屋と菓子屋だったという。俳誌「層雲」を主宰した荻原井泉水(1884〜1976)は、八合目小屋に泊まった時の様子を「石を積んだ上を、蒲鉾のやうな形に、苫を以て蔽ふたものに過ぎなかった。中には土の上にむしろが一枚づゝ奥深く敷いてあるらしいが、真暗だった」と「奥の細道を尋ねて」に書いている。かなり年数を隔ててはいるが、芭蕉が体験した「笹を鋪、篠を枕として」という仮寝も、これに近い趣だったのだろう。 |
元禄2年(1689年)6月7日(新暦7月23日) |
| おくのほそ道 |
| 日出て雲消れば湯殿に下る。
谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。
惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。
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| 曽良随行日記 |
| 〇七日 湯殿ヘ趣。鍛冶ヤシキ、コヤ有。牛首、コヤ有。不浄汚離、コヽニテ水アビル。少シ行テ、ハラジヌギカヱ、手繦ガケナドシテ御前ニ下ル(御前ヨリスグニ、シメカケ・大日坊へカヽリテ鶴ヶ岡ヘ出ル道有)。是ヨリ奥へ持タル金銀銭持テ不帰。惣而取落モノ取上ル事不成。浄衣・法冠・シメ斗ニテ行。昼時分、月山ニ帰ル。昼食シテ下向ス。強清水迄光明坊ヨリ弁当持セ、サカ迎セラル。及暮、南谷ニ帰。甚労ル。 △ハラヂヌギカヘ場ヨリ、シヅト云所ヘ出テ、モガミヘ行也。 △堂者坊ニ一宿、三人、一歩。月山、一夜宿、コヤ賃廿文。方々役銭貳百文之内。散銭貳百文之内。彼是、一歩銭不余。 |
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月山は、八幡平や霧ヶ峰と同じアスピーテ(楯状)火山で、全体的に傾斜は緩やかだが、西から南側にかけては結構角度のある斜面となっている。 山頂の小屋で一夜を明かした一行は、三山巡礼の締め括りとなる湯殿山を目指し、西の斜面を下って行った。道は、大小様々な石を寄せたにすぎなく、これが7、800mにわたって真下へと続く。 「おくのほそ道」に書かれた「鍛冶小 |
| 屋」の跡地は、頂きから300mほど下ったところにある。小屋の名は、鎌倉時代の刀鍛冶鬼王丸を祖とする名匠「月山」に由来するとされ、「月山」は、月山麓近くの谷地や寒河江を鍛刀の地とし、室町時代に最も繁栄したという。昭和46年、国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された故月山貞一は、この流れを汲み、刀に「綾杉肌」という独特な模様を出す鍛錬法の古術を現代に伝えた。 ○平成16年8月の時点では、「鍛冶小屋」の跡地に礎石のみが残り、建物は存在していない。 ○羽黒山山頂の出羽三山歴史博物館に、月山銘の太刀が収蔵・展示されている。 鍛冶小屋があったところから1kmほど下れば、湯殿山への道と姥沢小屋に行く道との分岐点「牛首」に至る。ここから真っ直ぐに行く石畳の道は平坦で、爽快なトレッキングを楽しむことができる。各地で記録的な暑さを観測した平成16年の夏も、ここ、月山の高山帯にあっては、ゲレンデが残した雪の塊を融かし兼ねる様相だった。 次の分岐点「金姥」においては、姥ヶ岳の山頂に続く石段をよそに見て、北西方向に折れる。姥ヶ岳の斜面を西廻りに行くこの道が、湯殿山への巡拝道である。千三百年余の永きにわたり連綿と続く巡礼の細き道を、突然流れ込む雲霧に息を呑み、鶯や道端の百花に心を惹かれながら進み行けば、やがて、谷あいの彼方に姿の良い湯殿山(標高1504m)の峰が見えてくる。 恐らくは、この辺りに至るまでの間に、芭蕉は「つぼみ半ばひらける」桜を目に留めた。推定される桜は、中部地方以北の亜高山帯から高山帯に咲くタカネザクラ(ミネザクラ)で、これは新葉とともに5月から7月ごろ、月山においては6月から7月ごろに花をつける。本来は高木だが本文に「三尺ばかり」とあるように、高所においては横に枝を広げ低木状となる。芭蕉は、この遅ざくらとの出会いから、熊野・大峰等で修行した行尊を追懐し、そして、百人一首でつとに知られる次の歌を思い浮かべた。 大峰にて思ひかけず桜の咲きたるを見て もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなし (金葉和歌集) |
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| ほどなくして、月山の霊水を下す「清め川」の小流に到る。手を浸せば痛みを覚えるほどの冷水を咽の奥に通し、身体の火照りを癒す。随行日記にある「不浄汚離、コヽニテ水アビル」は、登山道を横切って流れるこのところである。「清め川」の清水は、志津を流れる石跳川から月山湖に入り、やがては最上川の流れとなって、庄内の地に再来する。 これより更に湯殿への道を進み行くと、前方に山小屋の建つところが見えてくる。ここが、本宮に参る前に痛んだ草鞋を履き替え、衣装を改めた装束場である。かつては、脱ぎ捨てられた草鞋が山のように積まれていたという。取材時(平成16年8月)は営業を閉じている様子だったが、当所の山小屋は、登山者に薬湯を売る謂れより古くから「施薬小屋」と呼ばれている。 装束場から眺める湯殿山の頂きは、相似形をした一回り小さい峰と寄り添って、和みのある山容を呈している。しかし、その一方で、品倉山と相対し深いV字の谷を形成している北の斜面は、大きく傾斜して険阻である。湯殿山のご神体は、羽黒山や月山と同じく山頂にあると思われがちだが、その実、この急斜面を、鉄梯子や鎖を使用して下った谷底に鎮座する。 まず、最初の難所が「金月光(かながっこう)」と呼ばれるところで、鉄梯子の掛けられた急坂が四箇所ある。中でも「月光坂」は最も長く、30mほどの崖道を下る。最終盤になって控えるのが「水月光」の長坂である。その名は、傍らを流れる山水が、雨天の時になると一変し、岩や大小の石で覆われた急坂を滝水となって落下することに由来する。雨のない日も、足場が湿っていて滑りやすく、細心の注意が必要である。 これを過ぎれば、ついに湯殿山の急坂を下り終え、梵字川に到達する。川沿いの道を少し歩いたところに高さ11mの砂防ダムがあり、この先に、芭蕉の「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」を刻む句碑と、曽良の「湯殿山銭ふむ道の泪かな」の句碑がある。そして、その前方に、巡拝道の終点となる本宮参拝口がある。 |
| 湯殿山神社には古来より社殿が設けられず、お湯が湧き出す茶褐色の大岩をご神体としている。月山が、阿弥陀如来を本地として「死後」を象徴するのに対し、湯殿山は、大岩の形象に鑑みて、「再生」、すなわち、再びこの世に産み落とされることの象徴として大日如来を本地としている。 その開祖について、一般には、出羽三山の縁起をもとに、羽黒山、月山と同じく蜂子皇子と語られるが、湯殿山においては、古くから真言宗宗祖・弘法大師空海を開基とする旨が貫かれ、今日に至っている。江戸の昔、羽黒山が、出羽三山を天台宗で統一しようとした天宥に反発し、大いに紛糾したことは有名である。 湯殿山は、出羽三山の奥の院とされ、そのご神体は聖地たる隠し所に鎮座している。また、ご神体を、生命誕生の根底となる事物に照応させている所以からか、現在に至るまで、「語るなかれ、聞くなかれ」の戒律にて他言を禁じている。芭蕉は、これに則って「筆をとゞめて記さず」とし、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の一句を詠み遺すにとどめた。 |
| これにて三山の巡礼を終えた芭蕉一行は、この日の内に、湯殿への道を月山まで引き返した。山頂へは昼ごろに到着し、食事の後、月山を下っている。四合目に到ると、光明坊の僧(または光明坊という名の僧)が、南谷から弁当を携えて坂迎えに来ていた。「坂迎え」は、「境迎え」とも書き、社寺参詣の旅から戻った者を出迎えて持て成すことを言う。 随行日記によれば、南谷への到着は暮れ方だったという。当日の行程は、月山-湯殿山-月山-羽黒山という過酷なもので、曽良は「甚労ル」の三文字を用い、二日間に及ぶ月山、湯殿山への巡礼が、体力の極限に迫るものであったことを吐露している。 |
元禄2年(1689年)6月8日(新暦7月24日) |
| おくのほそ道 |
| 坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。
涼しさやほの三か月の羽黒山 雲の峯幾つ崩て月の山 語られぬ湯殿にぬらす袂かな (注) 短冊に書いたのは8日または9日と推測される。 |
| 曽良随行日記 |
| 八日 朝ノ間小雨ス。昼時ヨリ晴。和交院(会覚)御入、申ノ刻ニ至ル。 |
| 羽黒山の南谷に戻った翌日は、ゆっくりと休息の時を過ごすが、その内に会覚の別院入りがあり、午後4時ごろまで留まった。会覚は、月山、湯殿山への巡礼について芭蕉主従と縷々(るる)語り合い、そして、月山、湯殿山と歩きつづけた二人の、骨身を削っての旅を労(ねぎら)ったことだろう。 芭蕉は、南谷に滞在中、会覚の求めに応じて、本文に掲ぐ三つの句を短冊に認めているが、それを成したのがこの日、または翌9日と推測される。これらの短冊は、長谷川コレクションとして山形美術館に展示されている。 ○芭蕉真筆「出羽三山短冊」展示室 |
元禄2年(1689年)6月9日(新暦7月25日) |
| 曽良随行日記 |
| 〇九日 天気吉、折々曇。断食、及昼テ、シメアグル。ソウメンヲ進ム。亦、和交院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ至ル。花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄出来ル。 |
| 三山参りを終えた翌朝は、断食して潔斎をし、昼にそうめんを食べる習わしがあったが、芭蕉は、一日遅れの9日に、身に付けた木綿注連を納め上げるなど、一連の恒例を踏み、巡礼の旅を締め括っている。 その後、会覚が前日に続いて別院に足を運び、ご飯や銘酒を振る舞って午後4時ごろまで留まった。この日、初折の18句で中断していた歌仙が、会覚の花の句を得てついに満尾するところとなった。また、曽良が、この日までに発句4句を詠み終えたとして「ソラ発句、四句迄出来ル」と、自らのことを記している。この内の三句は「俳諧書留」に見られ、明らかである。 月山や鍛冶が跡とふ雪清水 銭踏て世を忘れけりゆどの道 三ヶ月や雪にしらけし雲峯 (俳諧書留) |
元禄2年(1689年)6月10日(新暦7月26日) |
| 曽良随行日記 |
| 〇十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄円入被迎、又、大杉根迄被送。秡川ニテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂(黄金堂)迄釣雪送ル。左吉同道。道ヽ小雨ス。ヌルヽニ不及。 |
6月10日、天候、曇り。8日間の滞在を終えて、この日、羽黒山を下る。旅荷を整えた芭蕉と曽良は、昼前、南谷の別院を離れ、途中、本坊に立ち寄った。会覚により、蕎切や茶、酒にて最後の振る舞いを受け、本坊出立は午後1時半ごろとなった。 円入、釣雪、恐らくは呂丸も同道して、二の坂、一の坂を下り、円入とは、爺杉あたりで別れた。祓川で手水して継子坂を登り、山内を後にする。芭蕉のみ呂丸宅より馬に乗ると、一行は、集落を下り、黄金堂の前で釣雪に別れを告げた。そして、呂丸を道連れに、次なる鶴岡を目指し手向を旅立って行った。 |
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松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第24集 芭蕉と出羽三山
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