| 芭蕉と呂丸の関わりについて |
| 大石田の高野一栄、高桑川水、羽黒の図司呂丸、金沢の立花北枝は、旅中、芭蕉から直伝を受けた門弟であり、特に、呂丸と北枝は、「おくのほそ道」の旅で煮詰まったとされる「不易流行」の教えを、次のように書き残している。 器物、そのほかなにゝよらず、世上に専らと行ハるゝにしたがひ、いろいろのいろ、さまざまのかたち、変化つかまつるに候へば、あなかしこ、変化を以てこのミちの花と御心得なさるべく候也。こゝに天地固有の俳諧あり。 天地流行の俳諧あり、風俗流行の俳諧あり。只此道ハ、花のもとに、ほとゝぎすの窓に、上ハあたごの風味より、下は木曽路の績桶迄、歌にもれ行茶ごとをももらさゞるの歌なり。 (呂丸「聞書七日草」) ○本書の論は「不易流行説」の原形と見られている。ただし、本書に「不易」の言葉は見られない。 蕉門正風の俳道に志あらん人は、世上の得失是非に迷はず、烏鷺馬鹿の言語になづむべからず。天地を右にし、万物山川草木人倫の本情を忘れず、飛花落葉に遊ぶべし。其姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変に渡る。 (北枝「山中問答」) ○「不易流行」の説について 呂丸は、本名を近藤左吉といい、染屋を営む傍らで妻とともに俳諧をよくし、当時、羽黒俳壇の中核にあった。芭蕉とは初対面であったが、名立たる江戸の宗匠との出会いを大いに喜び、羽黒山滞留の間、会覚阿闍梨の意を受けて丁重に接待したことが、次の書簡から窺い知られる。 今度初而得 尚々上方より具に可 (元禄2年6月15日象潟発信と見られる芭蕉真筆書簡) この度は、初対面ながら、羽黒山とのお取持ち並びにご厚情を賜りました御蔭にて、心静かに三山参りを勤めることができました。身に沁みて有難く感謝申し上げます。風雅を十分に心得ておられますので、貴方様を旧知のように思われましたこと、また、打ち解けてお付き合いができましたこと、この上なく嬉しく感謝致しております。何はともあれ、本坊滞在中、ご馳走、ご懇情を賜りましたことにつきましては、道者として比類無きお持て成しと存じ、感謝の言葉もございません。手紙では、ありふれた御礼となり恐縮ですが、心中、お汲み取りいただければ幸いです。光明坊、貞右衛門殿親子、南谷の御坊様方に、感謝の気持ちをお伝えいただけますよう、よろしくお願い申し上げます。 追伸 上方より改めてお便り申し上げます。 以上。 (現代語訳:LAP Edc. SOFT) 次の書簡は、元禄5年、各務支考が呂丸を訪ねた時に芭蕉の紹介状として持参したものだが、この中の「誠不思義清談夢之心地仕候」に注目すれば、これは、羽黒山滞留中、呂丸と俳談を交わしたことに触れたものであり、「夢之心地」の4文字から、この時間が十分に充実したものであったこと、すなわち、呂丸が芭蕉の説く俳論を理解し、お互いに気脈を通じ合えたことが推量される。 幸便之條啓上。愈御無事被 もし、江戸筋御出被 二月八日 はせを 近藤左吉様 宗五と御申出し候。命候内には今一度と願申候。 幸便に託して一筆申し上げます。益々つつがなくお過ごしのことと存じます。何はともあれ、いつぞやは、羽黒山におきましてご懇情を賜りましたこと、忘れ難く存じております。私は、その後、上方のあたりを漂泊しておりますが、こうした事情にて、お手紙も差し上げず申し訳ございません。また、和合院(別当代会覚阿闍梨)様には、本意に背き、音信致しておりませんことを大変申し訳無く存じております。今になってみれば不思議に思えますが、貴方様との清談は夢の中の出来事のように思われます。その後、俳諧との取り組みはいかがでしょうか。おととしは、路通と申すものが訪問致し、またまたご懇意に預からせていただいたとのこと。その折の俳諧は「月山発句合」にまとめられ、ともに、路通の「俳諧勧進帳」(元禄4年春板行)に所収されています。この度は、この盤子(各務支考。野盤子とも)と申す者が、奥州一見に参っております間、しばらく羽黒山に滞留するようにおっしゃって頂ければ幸いに存じます。彼は、風雅を少しは心得てございますので、お聞き入れくださいまようお願い致します。さて、こう認めております間に、だんだんと懐かしさが込み上げて参りました。 もし、江戸筋にお出でなられましたら、是非(深川の草庵を)お尋ねになってください。この度は、様々な方に便を認める用がございますので、早筆にて失礼させていただきます。頓首 二月八日 はせを 近藤左吉様 宗五と貴方様を思い出しております。存命のうちにもう一度お目にかかりたいと 願っております。 (現代語訳:LAP Edc. SOFT) ○本書簡は、現在、県指定文化財として出羽三山歴史博物館に収蔵・展示されている。 俳書「聞書七日草」は、この折の芭蕉の教えを書き留めたものであり、本書は、のち庄内俳壇の典拠として広く活用されたと伝えられる。 ついでに支考のことに触れれば、この年の春、芭蕉より餞別句「此こゝろ推せよ花に五器一具」を贈られて奥州への旅に出、これを機会に、地方への美濃派拡大を目指した支考は、庄内においては、呂丸や伊東不玉の協力を得て、同年、酒田に美濃派を立ち上げている。 呂丸は、同年8月、本書簡の追伸にある「存命のうちにもう一度お目にかかりたい」という芭蕉の言葉を受けて江戸に出向き、3年ぶりの再会を果した。呂丸は、この時「三日月日記」の稿本を芭蕉から貰い受け、これを旅中、幸便に託し家族のもとに届けている。 その後、引き続き、美濃、伊勢と西国を旅した呂丸は、翌元禄6年、京都に向井去来を尋ねたが1月半ばごろ病に倒れ、2月2日当所で客死した。芭蕉は、同年3月4日の夜、このことを酒堂(膳所)から届いた呂丸追善句を求める書簡で知って驚き、翌日、江戸勤番の鶴岡藩士・岸本八郎兵衛(公羽)に呂丸の急死を伝えた。 それから数日後、2通目の書簡が公羽に送られ、その中で芭蕉は「左吉被 同月10日、芭蕉は、呂丸が臨終のとき京都に居た会覚の5日付書簡を受け取り、これにてようやく事の子細を知るところとなった。そして、同日、間もなく鶴岡に帰郷する予定の公羽に、本書簡のことを便りで伝えた。 呂丸の死亡に関して、公羽に立て続けに綴られた書簡は全部で4通現存する。「貴翰辱(かたじけなく)委細拝見仕候」で始まる12日付、4通目の書簡は極めて長いもので、故人や縁類に向けた厚情、庄内の蕉門への言伝、芭蕉庵中に抱える病人などについて、切々と認められている。 近藤家の屋敷は、現在の羽黒第一小学校の校門近くにあったとされ、今、そのところに説明板を建て、当家の由来と芭蕉との関わりを伝えている。聞くところによれば、元禄2年、当家に芭蕉と曽良を出迎えた呂丸の妻は、夫の遺志を継ぎ、義弟の閑夕と力を合わせて羽黒俳壇を守ったということである。 図司呂丸(本名近藤左吉)は鶴岡鳥居町の藩士図司家の出で、羽黒町手向荒町(現在の亀井町)のこの地に移り住み山伏の摺り衣を染める染屋を本業としていたが、俳諧の道でも羽黒俳壇の雄としてすでに名を成していた。元禄二年(一六八九年)六月三日(現在の七月十九日)から七日間、芭蕉が「奥の細道」の旅の途中羽黒に滞在した折、最初に訪ねたのがこの呂丸宅である。当時、呂丸の家は第一小学校の方に向いて建っていたと考えられる。(羽黒町観光協会の説明板から) |
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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第24集 芭蕉と出羽三山
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