| 芭蕉に学んだ高野一栄と高桑川水 |
高野一栄について |
| 出羽国大石田村の河港近くで船問屋を生業とした高野一栄は、本名を高野平右衛門といい、元禄5年(1892年)に作成された大石田村「宗門御改帳」(山形大学附属図書館所蔵「二藤部文書」)中の「歳五十七」を基にすれば、「おくのほそ道」当時、一栄は芭蕉より八つ年上の五十四歳だった。 白川領大石田村 浄土宗 乗船寺<印> 平右衛門<印> 歳五十七 同 宗 同 寺<印> 女房 歳四十弐 平右衛門男子 同 宗 同 寺<印> 平四郎 歳十八 同人男子 同 宗 同 寺<印> 喜与助 歳八 同人男子 同 宗 同 寺<印> 波助 歳三 (宗門御改帳。家族のほか使用人5名も記載) 一栄は、尾花沢の鈴木清風や全国行脚中の大淀三千風との交流によって談林調の俳諧に研きをかけ、芭蕉の句も採録された天和元年(1681年)刊の清風編「おくれ双六」に15句、貞享2年(1685年)刊の清風編「稲筵」に9句が入集している。このことから、俳士としての一栄の名は、出羽国を越えて流布し、芭蕉にしても、同じ撰集に名を連ねたことから、尾花沢では、ある程度認識をもっての初対面だったと思われる。 |
| 「おくれ双六」所収の一栄の発句(一部) | 「稲筵」所収の一栄の発句(一部) |
年の花や目あき千人哥枕 高野氏一栄 草の餅や摺餌のゆかり雲雀の子 一栄 弁当や花も実もある金つかひ 一栄 桜 附 四方山のそしりに残す遅桜 一栄 蝶 蝶々ハ蛍の厨子の舞子哉 一栄 短 夜 夏の夜や夢半分の鼡喰 一栄 茸 森茸や色ひなれにし茶屋のかゝ 一栄 甘口の酒に色あり唐からし 一栄 |
若水や竜の都も千尋縄 羽州大石田 一栄 養父入 橋姫の中宿近しやふ入時 一栄 踏哥節会 女足はしるや汗を玉霰 一栄 白魚 竹串やさゝすもあらなん女白魚 大石田一栄 蝶 草の蝶起すや虻のゆすり声 大石田一栄 暮冬 うそつきの有世也けりとしのくれ 一栄 |
| 「おくれ双六」所収の芭蕉の発句 | - - |
郭公まねくか麦のむら尾花 桃青 |
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| 芭蕉が、鈴木清風の「おくれ双六」自序にある「古今俳諧の道に踏迷ふ」を引用し、「新古ふた道にふみまよふ」と「おくのほそ道」の本文に記したのは、旧態依然とした従来の俳風を継承するか、それとも、新風の聞こえが高い蕉門俳諧を会得するかという当地俳壇の心理的葛藤を表したものだった。 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければとわりなき一巻残しぬ。このたびの風流爰に至れり。(おくのほそ道) こうした中、大石田において率先垂範たる一栄、川水は、芭蕉を当地に迎えることとなり、これを機に蕉風俳諧に深く心を寄せた。芭蕉は、彼らの俳諧に対する熱意に感じ入ると同時に、旅を通して感受してきた人々の慈しみを、この最上川のほとりで改めて知るところとなり、当地での歌仙興行を決した。「わりなき」と本意を忍ばせながらも、芭蕉は、自らの手で歌仙を執筆し、「風流の初」の田植え唄で幕をあけた「おくのほそ道」の風流体感が、この地で極まったとし、「このたびの風流爰に至れり」と本文に認(したた)めた。 芭蕉が大石田を離れた後、蕉門入りした一栄との間にいかなる交渉があったかは不明だが、曽良随行日記の9月15日の条から、二人が伊勢で再会したことが知られる。これは、「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉一行が、大垣から伊賀上野に向う途中、9月14日に伊勢神宮に参詣し、翌日小幡に向うところで偶然、伊勢参りの一栄と出会ったことを書き記したものである。 ○十五日 卯ノ刻味右衛門宅ヲ立。翁、路通、中ノ郷迄被送。高野一栄道ニテ逢。小幡ニ至テ朝飯ス。至津、宿申二下ル。(曽良随行日記) |
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| 高桑川水は大石田村の大庄屋高桑金蔵で、のちに隠居して加助と称した。同家の過去帳によれば、大石田高桑家はもと下野国芳賀郡の出で、尾花沢の銀山が隆盛の頃に、大石田に移り住んだ。川水は、その三代目金蔵重好の長男として生まれたが、四代目は末弟の宗左衛門吉武が継いだようである。「おくのほそ道」当時、川水は隠居の身で、年齢は芭蕉と同じく四十六歳だった。 尾花沢滞在中の日記の条には、川水と一栄について然(さ)したる記述は見られないが、大石田に在っては、俳席、逍遥、夕飯の饗応と毎日のように芭蕉と交流をもち、両名は、そうした中で成熟過程の真っ只中にあった「不易流行」の概念について、芭蕉から直伝を受けたのではないかと想像される。 [在大石田] 一 廿八日 (前略)未ノ中尅、大石田一英宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田ヨリ一リ半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳、休ス。 一 廿九日 夜ニ入小雨ス。発・一巡終テ、翁両人誘テ黒瀧ヘ被参詣。予所労故止。未尅被帰。道々俳有。夕飯、川水ニ持賞。夜ニ入帰。 〇一 晦日 朝曇、辰刻晴。歌仙終。翁其辺ヘ被遊、帰、物ども被書。 〇六月朔 大石田を立。辰刻、一榮・川水、弥陀堂迄送ル。馬弐匹、舟形迄送ル。 その証左とし得る川水の句「月影や最上をさして川馬なく」が、元禄5年(1692年)刊、不玉編「継尾集」に採録されている。談林調に泥(なず)んでいたころの川水の句が見つからず、比較の対象とすることはできないが、本句から言葉を遊戯する談林調は窺えず、明らかに芭蕉の句風を漂わせている。一栄の句「鳥海の雲よりおりず揚雲雀」については、上の欄にて新古の比較が可能であるから、その証左とするに十分である。 月影や最上をさして川馬なく 大石田川水 鳥海の雲よりおりず揚雲雀 大石田一栄 (不玉編「継尾集」) |
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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第23集 芭蕉と大石田
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