| おくのほそ道文学館収蔵 |
| 羽州街道について |
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| 羽州街道界隈 [尾花沢宿と芭蕉のころの延沢銀山] -尾花沢市- | ||||
![]() 尾花沢村絵図 |
![]() 養泉寺門前 |
![]() 清風邸跡前 |
![]() 素英墓碑前 |
![]() 銀山温泉 |
| 曽良随行日記 5月27日の条 | ||||
| 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。 | ||||
尾花沢小学校に、文化文政期(1804〜1830)に書かれた掛軸「尾花沢村絵図」がある。当時の代官田口五郎左衛門が絵師原田円吉に描かせたものという。この村絵図を東端から眺めていくと、芭蕉が尾花沢入りした山刀伐峠越えの道が描かれ、この道を西に行くと延沢道と合流し、やがて南北に延びる羽州街道とT字を成して交わる。芭蕉が3泊した鈴木清風宅はこのT字路付近にあった。 芭蕉のころの延沢銀山 芭蕉は、尾花沢滞在中に2つの歌仙興行に同座し、その内、1度目に巻かれたのが「すゞしさを我がやどにしてねまる也」を発句とする「すゞしさを」歌仙である。この中に、清風の「たまさかに五殻のまじる秋の露」に付けた芭蕉の「かがりに明ける金山(かなやま)の神」の句がある。 |
| 羽州街道界隈 [土生田宿と本飯田宿] -村山市- |
| 曽良随行日記 5月27日の条 |
| 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。 |
清風宅を馬で旅立った芭蕉一行は、朧気(おぼろげ)村を経、今宿、五十沢間を南下し土生田宿に差し掛かった。土生田の北詰から1kmばかり南へ行ったところに、羽州街道から北西方向に分岐する脇道がある。これは、羽州街道と大石田河岸とを結んだ往還道で、慶長(1596〜1615)の頃、山形城主最上義光が「今宿村東山ノ岩石ヲキラセ、大石田村エ通路セシム」(願正御坊縁起)ために切り開いたものである。芭蕉は、山寺からの帰り道、この往還道から大石田の高野一栄宅を目指している。 本飯田宿 奥羽山脈の山裾に延びる街道を更に南下すると坂道となる。この坂道に上りかけた辺りが、土生田と本飯田の境目である。本飯田宿は、土生田宿と同じ、楯岡宿と尾花沢宿の間宿で、常備人馬の数は15人、15匹だった。 |
| 羽州街道界隈 [楯岡宿と楯岡の俳人] -村山市- | ||||
![]() 金谷・尾上の松 |
![]() 林崎・居合神社 |
![]() 楯岡・北町 |
![]() 楯岡・二日町 |
![]() 楯岡・十日町 |
| 曽良随行日記 5月27日の条 | ||||
| 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。 | ||||
本飯田との境目にあたる金谷地区の北詰に、約600年の樹齢を誇る名松「尾上の松」がある。尾上の松は、もとは雌雄二株あって「相生の松」として旅人の足を止めたが、大正12年(1923年)に雄株が雪で折れ、同年植え継がれた。芭蕉の頃、既に300年ほどの齢を数えていた尾上の松は、老いてなお村山市のシンボルツリーとして元気に育っている。 楯岡宿の本陣 出羽国には、本陣を持つ羽州街道の宿駅が10あり、芭蕉が山寺の旅で通過した尾花沢・天童間では、尾花沢宿と楯岡宿の2つだった。本陣は、大名が参勤交代を行う際の宿泊施設で、楯岡宿においては奥州大崎氏の家臣を祖とする笠原家が代々本陣をつとめ、その屋敷は、十日町の現村山郵便局の敷地に構えていた。笠原家が人馬の継立などを行う問屋場(といやば)も兼ねていたので、「清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄」送られた芭蕉は、本陣前で下馬したものと見られる。 居合神社と楯岡の宗匠壷中 尾上の松から1.5km余り南へ行った林崎地区に、居合道の始祖、林崎甚助重信を祭る居合神社がある。その昔、重信の「神夢想林崎流」を信望する武士が諸国から集まってこの神前で居合の奉納をし、また羽州街道を通行する武士は必ず参拝したと伝えられる。 山寺の芭蕉句碑に揮毫した楯岡の俳人一具 山寺根本中堂の正面左側の石垣の上に、嘉永6年(1853年)に建立された松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句碑があり、この句を揮毫したのが楯岡の俳人一具庵一具である。 |
| 羽州街道界隈 [六田宿] -東根市- | ||||
![]() 白水川 |
![]() 六田 |
![]() 蟹沢 |
![]() 神町 |
![]() 神町 |
| 曽良随行日記 5月27日の条 | ||||
| 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。 | ||||
楯岡から徒歩の旅となった芭蕉は、一里の道のりを歩き六田宿に差し掛かった。曽良の随行日記に「一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。」(当日の条)、「六田ニテ、又内藏ニ逢。立寄ば持賞ス。」(翌日の条)とあり、芭蕉一行はこの六田宿で、「内藏」なる人物に2度逢っている。内藏は、自宅に立ち寄った芭蕉を持て成したことから、尾花沢逗留中に芭蕉と面識を得、宗匠芭蕉であることを承知していた人物ということになるだろうが、詳細は不明である。 六田の麩(ふ)作り 東根は、昔から小麦の生産地で、奥羽山脈と白水川水系等が織り成す複合扇状地の端から良質の水が湧き出ることから、これを利用した麩作りが江戸時代から行われ、特に「佐竹井戸」を抱えた六田はその産地としてつとに知られている。現在も、白水川橋から900mほど先までの道沿いに6軒、裏通りに2軒の製麩所があり、この区間を「六田麩街道」と呼んで伝統の地場産品をアピールしている。 |
| 羽州街道界隈 [天童宿] -天童市- | ||||
![]() 一日町 |
![]() 山寺街道入口 |
![]() 北目の道標 |
![]() 将棋の館 |
![]() 将棋資料館 |
| 曽良随行日記 5月27日の条 | ||||
| 天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺ヘ趣。清風ヨリ馬ニテ舘岡(楯岡)迄被送ル。尾花沢。二リ、元飯田(本飯田)。一リ、舘岡(楯岡)。一リ、六田。馬次間ニ、内藏ニ逢。二リよ、天童(山形ヘ三リ半)。一リ半ニ近シ。山寺。未ノ下尅ニ着。 | ||||
芭蕉一行は、尾花沢から楯岡、六田など5つの宿を経、山寺街道の起点となる天童一日町に到着した。天童宿は、山形宿と楯岡宿の間宿で、南から伝馬町の一日町、五日町、三日町、続いて田町の四町が羽州街道沿いに並び、裏手に小路町と中町があった。 将棋の駒作り 生産量日本一を誇る天童の駒作りの歴史は古く、江戸時代後期まで遡る。織田信長の二男信雄を祖とする織田氏が、高畠から石高わずか2万石で天童に入部したのが天保2年(1831年)。かの大飢饉が始まる2年前であった。少ない石高に加え、8年間にわたる大飢饉は出羽国にも大きな打撃をもたらし、藩財政は窮乏を極めた。 |
[参照] 資料写真と解説 羽州街道界隈1
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第22集 芭蕉と尾花沢
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