| おくのほそ道文学館収蔵 |
台町の追分に、元文元年(1736年)に建てられた「これ従(より)右ハはざま道、左ハせんだい道」と刻する道標と庚申塚が建ち、付近に一関藩主田村家の菩提寺・大慈山祥雲寺や一関藩の「時の太鼓」を納める玉林山長昌寺の寺々が建ち並んでいる。 |
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道標は元文元年の建立であるから芭蕉は見ていないが、「一関に過ぎたるもの」としてその名を馳せた「時の太鼓」は、貞享3年(1686年)7月1日から昼夜十二の時を告げているので、藩主田村建顕の居館から聞こえる太鼓の音は、恐らく芭蕉の耳にも達したことだろう。 台町の追分から3kmほど行って蔵主沢に行き着くと、今来た道が蔵主沢で3つに分岐する。左の道は田んぼと集落のあいだを縫って山間部へ延び、右の方は市道の延長で刈又に続いている。これらの道に挟まれるように山があり、その裾に「奥の細道 蔵主沢」と書かれた道標が建っている。3つ目の道は、生い茂る雑草に覆い尽くされ、路肩さえ失いかけている山道で、これが奥州上街道の現在の姿だった。 |
| ○台町の追分から蔵主沢に行く途中で見られる「芭蕉行脚の道」の標柱1 2 ○蔵主沢の登り口に建つ「奥の細道」の標柱 |
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市道を1km近く行くと東北自動車道のガードがあり、程なくもう1つのガードが左手に見えてくる。この下を通る道が蔵主沢から山に向かった上街道で、稜線を伝った旧道はガードの先で山を下り、轍(わだち)を残す田の道から刈又に向かっていた。降り口を探しに山裾まで足を運んだが、雑草に埋もれ視認するに至らなかった。 岩ヶ崎 芭蕉一行は、一里塚から500mほど行って岩手県と宮城県の県境に達し、そこから「よしめき(吉目木)坂」を下り、上片馬合、一塚坂、赤児を経て岩ヶ崎に至っている。芭蕉が足跡を残した旧道は、現在ゴルフ場の一部になっていたり、所々に寸断箇所があるなど、実地の踏査を困難にしている。 芭蕉衣掛けの松 二迫川に架かる島巡り橋を渡って200mばかり南下し、県道・築館栗駒公園線との分岐点から700mほど行ったところに「芭蕉衣掛けの松入口」の標柱がある。ここから左に延びているのが祠堂ヶ森(志登ヶ森)への道、すなわち奥州上街道で、この道を1500mほど行くと、芭蕉が衣を掛けて一休みしたという松がある。しかし、今は保存の為に建てられた覆いの下に切り株だけが残るのみで、芭蕉を偲ぶよすがにすることはできない。 一迫・真坂 上街道は祠堂ヶ森を下って栗原西部広域農道と合流し、その後、右に折れて県道に入り真坂に続いている。上街道を坂下から眺めると、単に「山道」と言い放てない風格があり、いかにも街道然とした景観の中から、様々な道中姿に身を包んだ旅人が姿を見せるかと錯誤するほどの異次元的空間が広がっている。 芭蕉が訪れた元禄2年当時、城を上真坂・上台に構える富塚出雲重長が真坂を所領していたが、享保3年(1718年)に領地没収となり、その後白河氏の体制が幕末まで続いた。白河氏は奥州白河の城主で、宗広の代になって伊達家一門に名を連ねた。 |
| 真坂〜千本松長根〜岩出山・一宿の地 | ||||
| 元禄2年(1689年)5月14日(新暦6月30日)〜5月15日(新暦7月1日) | ||||
![]() 堂の沢 |
![]() 千本松長根 |
![]() 長根・ほそ道碑 |
![]() 天王寺一里塚 |
![]() 天王寺追分 |
| 奥州上街道は、真坂から昔川に沿うように南下を続け、昔川が垂直に向きを変えるあたりから左に緩やかにカーブし、次第に勾配を増していく。一迫と岩出山の境目を過ぎれば、やがて堂の沢一里塚に至り、駅馬の継立が行われた馬館から千本松長根の松並木に入り込む。 芭蕉と曽良は、右手に栗駒の山並みを眺めながら松並木の街道を通り抜け、堂の沢から一里を隔つ天王寺一里塚を目指した。間もなく出羽(仙台)街道中山越と合流する天王寺追分に至る。 一行は、歌枕「小黒崎」を一目見ようと、天王寺追分から西へ向かったが、日没が迫ったためこれを断念し、一栗から江合川添いの道を通って岩出山に引き返し、城下の旅籠に一宿した。 |
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| 南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。
(おくのほそ道) |
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| 四リ半、岩手山(伊達将監)。やしきモ町モ平地。上ノ山ハ正宗ノ初ノ居城也。杉茂リ、東ノ方、大川也。玉造川ト云。岩山也。入口半道程前ヨリ右ヘ切レ、一ツ栗(一栗)ト云村ニ至ル。小黒崎可見トノ義也。遠キ所也(二リ余)。故、川ニ添廻テ及暮。岩手山ニ宿ス。真坂ニテ雷雨ス。乃晴、頓テ又曇テ折々小雨スル也。 中新田町。小野田(仙台ヨリ最上ヘノ道ニ出合)。原ノ町。門沢(関所有)。漆沢。軽井沢。上ノ畑。野辺沢。尾羽根沢。大石田(乗船) 岩手山ヨリ門沢迄、すぐ道も有也。 右ノ道遠ク、難所有之由故、道ヲかヘテ、(次の章に続く) (曽良随行日記) |
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【地図 】 参照 岩出山と伊達政宗について |
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県道・栗駒岩出山線と重複する奥州上街道を真坂から岩出山に向かって南下する。昔川が垂直に流れを変えているあたりから2kmほど行った所に、堂の沢一里塚の跡地がある。土地を所有される方に話を聞くと、子供のころ父親と一緒に一里塚を崩し畑に変えたのだという。4、50年前のことになるだろう。「今になって考えれば」と、塚を無くされたことをたいそう残念がっておられたが、上街道にしても、これまで生活に利用できなかった箇所が残っているに他ならない。 |
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| 潜松坂出入口から西に向かって馬館まで行くと、山に延びる細道があって右の道端に「馬館跡」と「馬館古墳群」の白い標柱が建っている。馬館地区は、かつて役場や駐在所もあった真山地区の中心地で、「馬館」の名は、むかし駅舎を置いて駅馬の継立を行ったことに由来する。 細道を進むと、山の際に「奥州上街道」と書かれた説明板がある。芭蕉も足を踏み入れた上街道・千本松長根の東の入口である。松並木に至るまでの坂道に雑割石が整然と敷かれ、道端に枝を迫り出す雑木と相まって興趣を深めている。こうした中しばらく歩き続けると、一瞬、時を旅したかと思われる光景が目に飛び込んでくる。これが1400m先まで延々と松を連ねる奥州上街道である。 ○千本松長根の東端付近(馬館)1 2 3 松の大木は戦時中「松根油」採取のために伐採され、今は見事な枝ぶりの松にお目にかかることはできないものの、昭和27年(1952年)ごろ小中学生の手によって植え継がれた松は、現在まで往時の風を香らすほどに成長し昔の道中文化を今に伝えている。 ○千本松長根1 2 3 旧道を中ほどまで行ったところに屋根を四方に葺きおろす東屋がある。その傍らに、「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る」を刻む「おくのほそ道」碑が建っている。平成元年に「おくのほそ道」紀行300年を記念して旧岩出山町が建立したもので、千本松長根で見られる唯一の芭蕉関連碑である。松並木の街道は更に続き、「歴史の道上街道案内図」の建つ位置がその西端にあたる。 ○東屋付近 ○「おくのほそ道」碑 ○千本松長根の西端付近 ○千本松長根から下る 天王寺一里塚・天王寺追分 上街道の西端から1.5kmほど距離を置いたところに、対をなして堂々と構える天王寺一里塚がある。岩出山地内で一里塚が築かれたところは、既述の堂の沢のほか、赤新田と天王寺であるが、現存するのはこの天王寺一里塚のみである。旅人に里程を知らせるため、各街道の両側に一里ごとに築かれた一里塚は都市化とともに消滅しているが、一里塚や風化しかかった道標は原風景の点景に相違なく、難儀した旅人の汗さえ沁みるこれらの文化遺産は、未来に向けて確実に伝え残すべきものだろう。 岩出山一宿の地と芭蕉の旅路 芭蕉の岩出山の宿泊先については資料が無く不明とされるが、伝承によれば、当時、荒町に商人宿「留平屋」、仲町に旅人宿「石崎屋」があったとされ、芭蕉はこの中の「石崎屋」に止宿したといわれている。 |
| 岩出山・一宿の地〜小黒崎・美豆の小島〜尿前の関 | ||||
| 元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日) | ||||
![]() 小黒崎 |
![]() 小黒崎・芭蕉像 |
![]() 美豆の小島 |
![]() 尿前の関跡 |
![]() 尿前・芭蕉句碑 |
| 芭蕉一行は、前日まで、中新田・小野田経由で尾花沢を目指そうとしていたが、「道遠ク、難所有之」の理由で、急遽、鳴子経由に変更し、通行手形の用意がないままに岩出山を出立した。 こうした事情から、前日取りやめた歌枕の見物が可能となった。その小黒崎は、岩出山の旅籠から12kmほど行った鳴子との境目にあり、美豆の小島はその先の名生定にある。 芭蕉は、美豆の小島から出羽街道中山越の道を更に西へ進み、大口村の川渡温泉を左に眺めながら鳴子村に足を踏み入れた。 鳴子における街道の道筋は、江合川の北を大畑、中屋敷を経由して東西に延び、岩渕からは綱渡しで尿前の関に通じていた。 芭蕉と曽良は、厳重な警戒の中、手形不携帯の廉(かど)で取調べを受けることとなったが、その日の内に放免され、漸(ようよ)うにして関越えを果たした。 |
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| 小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。 (おくのほそ道) |
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| 一 十五日 小雨ス。二リ、宮(下宮)。 ○壱り半、かぢハ沢。此辺ハ真坂ヨリ小蔵ト云かゝリテ、此宿ヘ出タル、各別近シ。 ○此間、小黒崎・水ノ小島有。名生貞(名生定)ト云村ヲ黒崎ト所ノ者云也。其ノ南ノ山ヲ黒崎山ト云。名生貞ノ前、川中ニ岩島ニ松三本、其外小木生テ有。水ノ小島也。今ハ川原、向付タル也。古ヘハ川中也。宮・一ツ栗ノ間、古ヘハ入江シテ、玉造江成ト云。今、田畑成也。 一リ半、尿前。シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。沢子ノ御湯成ト云。仙台ノ説也。関所有、断六ヶ敷也。出手形ノ用意可有之也。 (曽良随行日記) |
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【地図1 2 】 参照 芭蕉が訪ねた歌枕、小黒崎と美豆の小島 鳴子と尿前の関について |
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一行は、岩出山の旅籠から北へ進んで天王寺追分まで行き、そこから山裾伝いに一栗、下宮へと歩みを進めた。一栗は、かつて一栗城があったところで、岩手沢城主・氏家氏の一族が居城していたが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原城攻略に不参した大崎氏が領地を奪われたことから家臣の氏家氏も岩手沢城を追われ、同時に一栗城も廃城となった。 尿前の関へ 当時、鳴子の温泉郷には既に大型の宿泊施設がつくられ、奥州の名湯として多くの湯治客を集めていた。芭蕉一行は、左手に鳴子の温泉場を眺めながら尿前の関を目指し、岩渕の舟渡しに到着した。 |
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岩渕から対岸の尿前へは綱渡しで渡ったと見られるが、綱渡しとは、瀬の速いところで採られた川越えの方法で、両岸に太い綱を張り、これを手繰(たぐ)るようにして舟を渡すやりかたである。当時の江合川越えについて、徒渡(かちわた)り、すなわち川を歩いて渡ったと説明される場合があるが、元禄9年(1696年)に師の旅を辿って著した蕉門・天野桃隣の「陸奥衛」に「鳴子の温泉前に大川、綱渡し」とあるので、上記の方法で渡ったとみていいだろう。 |
| 一行が着いた先は、代々関所を警備した遊佐氏の屋敷で、この屋敷が尿前番所として機能し屋敷内に岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれていた。街道は関所の中を通り、番所の表門と裏門に遊佐氏一族と村人が配置されていた。 「おくのほそ道」に「此路旅人稀なる所なれば」とあるように、中山峠を越える山道が難所であるため尿前の関を通行する旅人は稀であり、その上、出手形(通行手形)を所持していなかったことから、芭蕉と曽良は「関守にあやしめられ」て取調べを受ける事態となったが、その日の内に放免され漸(ようや)く関越えを果たした。出手形は、仙台藩で領内に入る時に発行したもので、領外に出るときこれを差し出すきまりになっていた。 ○尿前番所の表門跡 ○表門跡付近から見た関道 ○復元された関所の門構え ○関所跡の芭蕉像とその周辺1 2 3 ○薬師神社に建つ芭蕉句碑 ○関所跡から見た出羽街道中山越の道筋 |
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| 尿前の関〜中山峠越え〜堺田・封人の家 | ||||
| 元禄2年(1689年)5月15日(新暦7月1日)〜5月17日(新暦7月3日) | ||||
![]() 薬師坂 |
![]() 小深沢 |
![]() 大深沢 |
![]() 軽井沢 |
![]() 封人の家 |
| 番所裏の尿前坂、薬師坂を登ると旧関の地、岩手の森に至り、その先に峠越えの山道が延々と続く。 尿前の関から中山宿まで「一リ半」(「随行日記」)、中山宿から堺田まで約一里あり、中山宿寄りの堺田「入口五・六丁先ニ」新庄藩と仙台藩の境目を示す杭が打ってあった。 芭蕉一行は、日暮れ時になって堺田に到着し「封人の家」に止宿した。風雨(随行日記では「大雨」)のため翌日も同家に宿泊し、快晴となった17日、尾花沢を目指し堺田を旅立って行った。 |
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| 大山をのぼつて日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱馬の尿する枕もと (おくのほそ道) |
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| 一リ半、中山。 ○堺田。村山郡小田島庄小国之内。出羽新庄領也。中山ヨリ入口五・六丁先ニ堺杭有。 ○十六日 堺田二滞留。大雨。宿和泉庄や新右衛門兄也。 ○十七日 快晴。堺田ヲ立。 (曽良随行日記) |
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【地図1 2 】 参照 出羽街道中山越を行く 最上町と封人の家と蚤虱の句について |
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旧鳴子町は、文化庁と宮城県の指導のもと、昭和53年(1978年)に中山峠越えの道を「おくのほそ道」遊歩道として整備・保存する事業を開始し、初年度は、山形県との県境・堺田から軽井沢までの約2.3kmを整備し、翌年からの3ヶ年の間に、西原〜星沼間、星沼〜尿前間、花渕山〜小深沢間を整備した。総延長は約5kmに及ぶ。 芭蕉は中山峠を歩いたか 軍用地のため橋を持たなかった小深沢、大深沢の難所は、通行を極めて困難にしたと思われるが、本文には「大山をのぼつて日既暮ければ」、曽良の随行日記には「一リ半、中山。」としか記されていない。このことは、峠越えで難儀な旅をしていない、すなわち、既に当時成立していた尿前宿や中山宿で馬を借りた可能性を意味するものだろうか。 尿前の関から小深沢まで 尿前の関跡から急勾配の「尿前坂」を登って国道47号線に至り、左寄りに横断した先から「薬師坂」を登ると岩手の森に出る。この森は、尿前の関所が坂下に移るまで番所が置かれていた所で、源義経に同道して平泉に下るときに、腹痛を起こした北ノ方が山鳩に救われたという伝説の地であり、そのお礼として義経が弁慶に建立させたという薬師堂の跡地でもある。 大 深 沢 何のための建物かは分からぬが、それを過ぎるあたりから旧道は再び原生林に入り込む。更に続く平坦地をしばらく行くと、眼の前に尋常でない森の光景が飛び込んでくる。道の左側に2、30mの長さの土塁跡が円弧を描いて延び、右手の斜面にもかなりの長さに渡って土塁跡が見られる。土塁跡の西側には空堀の遺構もはっきり残っている。尋常でない光景の正体はなんと「砦」跡であった。「安永風土記書出」に「大深沢坂、四丁三十二間、但右出羽江之海道(街道)尿前通第一之坂沢二而登り下り拾丁、軍用之所二御座候」とあり、道中最大の難所大深沢は、古くから敵の東進を阻む軍用地として利用され、戊辰の役の際は、小深沢にも仙台伊達藩や岩出山藩から警備に出ていたということである。 中山宿跡 国道に下りたところから中山平温泉郷を左に見て2kmほど行くと、道の右側に「宿」の集落が見えてくる。ここが寛永年間(1624〜1644年)に設置された中山宿の跡地である。中山宿は、玉造郡における岩出山、下宮、鍛冶谷沢、尿前の各宿が成立した後に設けられた宿駅で、設営にあたっては鳴子村の初代肝入(庄屋)遊佐氏六代平八郎宣重や七代平左衛門が大きな貢献を果たした。幕末期の中山宿の規模については、東西が1町1間、南北33間、戸数10戸、住人46人と伝えられる。 軽井沢越え 杉並木が途絶えた先からのどかな田園風景が広がり、西原地区の平坦な道筋が1kmほど続いている。これを西へ行って道標のところから左に折れ200mほど行くと、小柴山からの清水を流す軽井沢の谷が見えてくる。山道はきれいに整備され谷川の上に頑丈な木橋も架けられているが、周囲の景観に手が加えられた形跡は見られない。軽井沢には小深沢や大深沢に見られるような険しさがない上に、国道から沢の入口まで車で入れるので、原風景を楽しみながら気軽に散策することができる。 甘酒地蔵尊 軽井沢の谷からさらに西へ行くとやや開けたところに庚申塚の建つ休憩所がある。休憩所から西へ行くにしたがって街道らしい趣が薄れ、次第に道幅が狭くなる。こうした中を500mほど歩いていくと右手に陣ヶ森の甘酒地蔵尊が見えてくる。この甘酒地蔵尊について、次のような言い伝えがある。 堺田と「封人の家」について 出羽街道中山越における新庄領と伊達領の境目については、明確な線引きが行われていなかった為に、富沢村(山形県)と中山村(宮城県)との間でしばしば領地争いが生じた。この争いは幕府に仲裁を仰ぐ事態にまで発展し、正保2年(1645年)境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解した。こうして大谷川の端に「境分杭」が建てられ国境の目印となった。この境目は今日も行政区域上の境界となっている。 |
| 堺田・封人の家〜赤倉温泉〜山刀伐峠〜尾花沢 | ||||
| 元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日) | ||||
![]() 赤倉・旧道 |
![]() 一刎 |
![]() 最上町・登山口 |
![]() 山刀伐峠 |
![]() 尾花沢・登山口 |
| 尾花沢への経路として当初背坂峠越えを予定していたが、回り道との理由から、山刀伐峠越えに変更し、宿の主人の「道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べき」との教えに従い「究境の若者」を道連れにした。 芭蕉一行は、笹森口留番所、万騎の原古戦場、赤倉、一刎を経、山刀伐峠を越えて尾花沢に到着した。 |
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| あるじの云、是より出羽の国に大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て人を頼侍れば、究境の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したりと、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。 (おくのほそ道) |
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| 一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。三リ、市野ゝ。小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出、堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。 (曽良随行日記) |
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【地図 】 参照 最上町と封人の家と蚤虱の句について |
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歴史の道保存整備事業では、笹森を境に、これより東を「出羽街道(仙台)中山越」、これより西の一刎経由・山刀伐峠越えの道を「山刀伐峠越」としている。 コースの変更について |
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芭蕉は、当初、堺田から向町、満沢を経て尾花沢の岩谷沢に抜ける背坂(せなさか)峠越えを予定したが、堺田逗留中この経路が遠回りであることを知らされたとみられ、急遽、一刎経由の山刀伐峠越に変更した。曽良随行日記の「小国ト云ヘカヽレバ廻リ成故」は向町経由の背坂峠越えについて記したものであり、当時はこの経路が尾花沢への一般道で多くの人馬が往来していた。 これは、山刀伐峠越の山道が、特に小国側で険峻だったからであり、 |
| この為、芭蕉は、宿の主人の勧め通り道案内と荷物運搬のために「究境の若者」を道連れにして峠越えを果たしている。若者は、芭蕉と曽良の護衛のため「反脇指をよこたえ」ていた。 笹森に置かれた口留番所 口留番所は旅人の通行や荷物の取り調べを行ったところで、当時、笹森にこの番所が設けられていた。口留番所は主要街道に設置された御番所と異なり百姓身分の村人が鉄砲や槍といった武器を所持して自宅でその任に当たり、笹森においては佐藤家が廃藩まで世襲して番人を勤めた。曽良の随行日記に笹森番所について「関守ハ百姓ニ貢ヲ宥シ置也。ササ森。」と書かれている。 赤倉温泉 赤倉温泉は、慈覚大師が東国巡礼の旅に出たときに開いたと伝えられ、平成13年現在12の宿泊施設が小国川沿いに点在している。芭蕉が当地を通行したころはまだ温泉場として機能していなかったようである。 山刀伐峠越 [東側斜面] 「山刀伐峠」の名称は、東の最上町側が切り立って、西の尾花沢側がなだらかになっている山容が、山稼ぎで使用した「山刀伐」という被り物に似ていることに由来するといわれる。曽良の随行日記に「一ハネト云山路」とあるように、芭蕉が登坂したころはまだ固有の名詞を持たず、山刀伐峠と呼ばれるようになったのは江戸後期ごろからと見られている。 |
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山刀伐峠は標高470m程度の山であるが、東の斜面は急勾配のため「二十七曲り」と称する全長800mの坂道を右へ左へと方向を変えながら登っていく。登りやすく整えられた今でも難儀する山道であるから「道さだかならざ」る坂を「篠の中踏分踏分」頂上まで登るのは至難の業 |
| だったろうと思われる。この峠越えの道が改修され一般に利用されるようになったのは、嘉永4年(1851年)以降のことであった。 ○登山口周辺 ○登山口1 2 見上げれば、鬱蒼と茂るブナの原生林が空を塞いではいるものの、今は本文にあるような「木の下闇茂りあひて夜る行がごとし。」といった印象はない。実は、芭蕉のころに原生していたブナの古木は、第二次世界大戦のとき軍事利用のために伐採され、現在見られるブナの木々はその後に成長したものである。このような訳で、芭蕉が記したこの行(くだり)は、当時の山中の有り体をそのまま書き出したものとみていいだろう。 ○登山道1 2 3 |
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東側斜面の登山道を踏破し、最上町と尾花沢市の境界をなす山刀伐峠の山頂に到着する。山頂には東屋が建ち、そこから、葉山、月山、朝日連邦を一望することができる。東屋付近に、近年大きめの祠に移された子宝地蔵尊があり、その脇に「子持ち杉」の老杉が聳えている。 山刀伐峠越 [西側斜面] 山頂や西端付近に急坂も見られるが尾花沢側は概して平坦である。しかし、西側斜面の道程(みちのり)が800mであるのに対し、こちらは3000mと4倍に近い距離がある。旧県道と重複する箇所もあって往時の面影を追いながら遊歩できるのはおよそ1500mほどである。 |
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資 料 提 供
平泉郷土館、一関市教育委員会生涯学習課
旧金成町教育委員会、旧栗駒町教育委員会、旧一迫町教育委員会
旧岩出山町教育委員会、旧岩出山町産業振興課
旧鳴子町教育委員会、旧鳴子町観光農林課、旧鳴子町公民館
最上町企画観光課、最上町教育委員会
掲載のデータについて
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おくのほそ道 総合データベース
俳聖
松尾芭蕉・みちのくの足跡
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第21集 芭蕉と出羽越え
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