真山葛岡地区が馬産地として名を高めた。仙台藩が岩出山に馬市を立て二歳馬の買い上げを行ったことから、馬は農民の重要な収入源となり、農家の家屋は母屋に接して馬屋が築かれ人馬密着の生活が営まれた。
地域名の「岩出山」は、室町時代から「岩手沢」と呼ばれていたのを、天正19年(1591年)、岩手沢城に移った伊達政宗が「岩出山」に呼び変えたことに由来する。当地がむかし「岩手沢」と呼ばれていたことについては、丘陵の岩肌が掌(てのひら)状に枝分かれして露出してことに因むとか、「岩の森」を意味するアイヌ語「イワタイ」が「イワテ」になったなどの説がある。
伊達政宗と岩出山
岩手沢城は、室町はじめの貞和5年(1349年)、下野国(栃木県)の氏家氏が奥州探題大崎氏(もと斯波氏)の監視役として入城したのに始まり、以来、約250年にわたって岩手沢城に居城し、大崎氏の重臣として勢力を維持した。
しかし、天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原城攻略に不参した大崎氏が領地五郡(玉造、栗原など)を奪われたのに伴い、氏家氏は岩手沢城を追われることとなり、秀吉配下の木村吉清が大崎氏の旧領地を拝領し、その家臣萩田三右衛門が岩手沢城主となった。
奥州総奉行を勤めた名家葛西氏の領地七郡(江刺、肝沢、登米など)も木村吉清の所領となっていたが、大崎・葛西旧領の士民は、権力を楯に暴政を極める木村吉清に反発を強めていた。こうした中、年貢の取り立てなどで領民を苛(さいな)んでいた岩手沢城主・三右衛門が斬殺され、これが動因となり古川、登米などを巻き込む大崎・葛西一揆が勃発した。
秀吉は、この一揆の平定を、米沢城主の伊達政宗と会津黒川城主の蒲生氏郷に命じ、両氏は、早々に一揆勢力を弱体化させ鎮圧した。しかし、秀吉は政宗の戦功を認めず、政宗は逆に一揆煽動の嫌疑をかけられ上洛を命じられた。政宗の釈明が受け入れられ罪には問われなかったものの、米沢城の明け渡しを命じられ、福島と山形に跨る領地を没収された。
これらの領地は武勲を認められた蒲生氏郷に与えられ、政宗に対しては一揆で荒地と化した大崎、葛西両氏の旧領地、および、宮城県中南部八郡(宮城、名取、亘理など)が宛がわれた。天正19年(1591年)9月、若き政宗は生誕の地米沢を離れ、秀吉の命により予め徳川家康が修復していた岩手沢に入府して地名を「岩出山」と改め、慶長8年(1603年)8月仙台城に初入城するまでの12年間、この岩出山城を拠点として世の動静を睨んだ。
政宗が仙台に移った後、その第四子宗泰が2歳の時に後継ぎとなり、岩出山初代として入城した。宗泰は山城国伏見(京都)の藩邸で生まれ、幼名を愛松丸と称した。岩出山の町を見渡す伊達家霊廟には、初代宗泰から戊辰戦争ののち蝦夷地開拓を決した十代邦直まで、岩出山を治めた歴代領主の墓が立ち並んでいる。岩出山城址は、現在城山公園として整備され、本丸の出丸跡に、昭和39年(1964年)まで仙台(青葉)城址にあった政宗の銅像が建てられている。
史跡の町・岩出山
岩出山には、この霊廟をはじめとし、伊達家や岩出山城にまつわる史跡が数多く残されている。
その1つに有備館がある。陸羽東線の有備館駅の向かいに位置する有備館は、二代宗敏の時、岩出山城の二の丸が全焼した際に仮居館として建築されたもので、三代敏親の時、仮居館は学問所「春学館」として使用された。その後、「有備館」として現在地に移され、四代村泰の時、庭園が廻遊式池泉庭園として整備された。江戸期のものとして残る最古の藩校建築で、昭和8年(1933年)に国の史跡名勝に指定されている。
城山公園の西方に諸法山実相寺(曹洞宗)がある。天正19年(1591年)に徳川家康が奥州下向で40日間逗留した寺であり、家康は、この実相寺で岩手沢城や城下の建て直しを図った。これを縁に、家康の霊碑を安置する他、政宗が仙台城に移ったのち岩出山伊達家の菩提寺となったことから、歴代領主の霊碑が安置されている。
城山公園から町内を眺めると一見、川に思える流れが目に止まる。これは政宗が整備したと伝えられる人口用水路「内川」で、岩出山城の外堀の役割を果たした。江合川から引かれている内川の清水は、今は主に農業用水として利用されているが、町内にあった製糸工場が隆盛だったころ、繭の加工にも利用されていたという。現在、内川にそって遊歩道が築かれ「学問の道」として親しまれている。 |