| [ 其の2 ] |
| 「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行が宿泊したと伝えられるゆかりの地を、本文や曽良随行日記、増補行程記(盛岡市中央公民館所蔵)、取材写真など、様々な資料を交えて説明しています。 |
4月20日(新暦6月7日) |
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| 旗宿 -福島県- | ||
| 「おくのほそ道」本文からの情報 [資料] | ||
| 心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。 (「白河の関」の章段) |
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| 「曽良随行日記」からの情報 [資料] | ||
| 廿日 一 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶屋有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿(旗宿)ヘ行。廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。 一 廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。 |
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| おくのほそ道・旅の宿 | ||
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宿泊先不明 上の写真は、栃木県那須町から見た県境。中央に見えるのが栃木県側の「境の明神」。 下の写真は、県境にある福島県側の標柱。 ○芭蕉と白河の関について |
下野を出て最初の宿りとなった「旗宿」の地名は、源義経が平泉から源平合戦に向かう途次、当地に立ち寄って現在の白河神社に必勝祈願をし、この折神社境内の桜の木に源氏の旗を立てたことに因むという。この旗宿を貫く道が、旧大道・東山道で、京都から、近江、美濃、信濃、上野、下野の各国府を経て多賀城に達する律令国家の基幹道であった。しかし、芭蕉のころ、街道としての担いは既に西側の奥州街道に譲られており、芦野で西行ゆかりの「遊行柳」を見物した芭蕉一行は、この新関からみちのく入りを果たした。 白川の関是也。二所ノ関ニハ観音有之よし。聖武ノ御宇造立ト云々。東二里隔てゝ関、祭る神同し、二所之関と云。関山とも申よし。今は街道に非ス。郷人の申し侍るハ、今の関と上古の関と二筋、古より有之故、白川二所の関と申したりと。 (奥州道中 増補行程記) 白河関 下野・奥州ノ堺。並テ両国ノ堺明神両社有。前ハ茶屋ナリ。古ノ関ハ東ノ方二リ半程ニ旗ノ宿ト云有。ソレヨリ一リ程下野ノ方、追分ト云所ナリ。今モ両国ノ堺ナリ。 (名勝備忘録) 旗宿到着後、一行は「庄司戻し」を見物して義経主従を偲び、暮れ前、「白河関跡」から500mほどの距離にあったという宿集落のいずれかで草鞋を脱いだ。 |
| ○第4集 芭蕉と白河 ○奥州道中 増補行程記 - 白河1 ○奥州道中 増補行程記 - 白河2 ○奥州道中 増補行程記 - 白河3 ○芭蕉翁絵詞伝-白河の関 ○一遍上人絵詞伝-白河の関 |
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4月21日(新暦6月8日) |
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| 矢吹 -福島県- | ||
| 「曽良随行日記」からの情報 [資料] | ||
| 一 廿一日 矢吹ヘ申ノ上尅ニ着、宿カル。白河ヨリ四里。今日昼過ヨリ快晴。宿次道程ノ帳有リ。 |
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| おくのほそ道・旅の宿 | ||
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宿泊先不明 上の写真は、旗宿の「白河関跡」。 下の写真は、矢吹町の「中畑陣屋跡」。 |
どこが古代の関跡か。歌枕「白河の関」の手懸かりを得られぬまま到着の一夜を明かした芭蕉一行は、宿主から、後年松平定信が古関跡と認定した「白河関跡」を教えられ、立ち寄った。 町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。 (曽良随行日記) ○「芭蕉と白河 白河における芭蕉の動向」 矢吹、須賀川の宿へは、旗宿から一旦白坂に戻って奥州街道から行くところを、一行は、ここも古関跡と伝えられる関山経由の道筋を選択した。 関山を下って、連歌師宗祇ゆかりの「宗祇もどし」の地を見物。当日の旅宿・矢吹に到着したのは午後3時半ごろだった。 「矢吹(やぶき)」の地名の由来は、源義家が当地に八幡神社を建立した時に、屋根を、弓矢の柄で葺いたことに由来するといわれ、町内には、陣屋跡や松並木など、往時の宿場町、街道風情が今も残されている。 |
| ○矢吹町の「五本松の松並木」 ○奥州道中 増補行程記 - 矢吹宿 |
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4月22日〜28日(新暦6月9日〜6月15日) |
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| 須賀川 -福島県- | ||
| 「おくのほそ道」本文からの情報 [資料] | ||
| かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とゞめらる。 (「須賀川」の章段) |
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| 「曽良随行日記」からの情報 [資料] | ||
| おくのほそ道・旅の宿 | ||
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相楽等躬宅 上の写真は、現在NTT須賀川の敷地になっている相楽等躬宅跡。 下の写真は、NTT須賀川の敷地の西側にある可伸庵跡。 |
矢本の宿から、蜃気楼現象で知られた「かげ沼」の地を経由し、須賀川本町の相楽等躬(とうきゅう)宅に到着。以降、8日間にわたって当地に逗留することとなる。 芭蕉と等躬は、当時問屋を営んでいた等躬が江戸出府の折に俳諧を通して知り合った仲と見られ、それぞれの師、北村季吟と石田末得がともに松永貞徳門下であるゆえ二人は同門・孫弟子の間柄であった。 ○「かげ沼」について ○芭蕉が須賀川に残した8日間の足跡 逗留中、芭蕉は、地元の俳人との交流を図って俳席を重ね、「おくのほそ道」挿入の二句、「風流の初やおくの田植歌」と「かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」をものにした。 |
| ○第5集 芭蕉と須賀川 ○須賀川市に残る一里塚 ○奥州道中 増補行程記 - 須賀川1 ○奥州道中 増補行程記 - 須賀川2 ○奥州道中 増補行程記 - 須賀川3 ○奥の細道画巻(逸翁美術館所蔵)-可伸庵 ○奥の細道画巻(京都国立博物館所蔵)-可伸庵 ○芭蕉翁須賀川に宿るところの図 |
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4月29日(新暦6月16日) |
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| 郡山 -福島県- | ||
| 「曽良随行日記」からの情報 [資料] | ||
| おくのほそ道・旅の宿 | ||
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宿泊先不明 (ただし、下記の伝承あり。) 写真は、郡山市田村町の田村神社。 「大元明王」は明治15年(1882年)、現在の「田村神社」にその名を変えている。 |
須賀川に別れを告げ、「石河の滝(乙字ヶ滝)」見物のため等躬宅から石川街道を南行した一行は、小作田経由で岩(磐)城街道の守山宿に入った。まず、問屋善兵衛宅に出向いて接待を受けた後、矢内弥市右衛門の添状を携えて大元明王別当寺の善法寺を訪ね、大元明王参詣や善法寺の宝物拝観で一時を過ごした。芭蕉は、守山宿で須賀川からの馬を善兵衛が供した馬に乗り換え、岩城街道を北進。日出山渡し(金屋渡し)で阿武隈川を越え、日の入り前、郡山の宿に到着した。 昭和52年(1977年)に郡山市が編集・発行した「郡山の歴史」によれば、郡山村が「宿場町」に昇格したのは文政7年(1824年)になってからで、芭蕉のころは人口1200人前後の農村にすぎなかったという。曽良が当宿駅または宿泊先について「ムサカリシ」と記した本意は知る由もないが、「郡山の歴史」に、芭蕉一行の宿について次のような記載が見られる。 |
| 「郡山古事雑記」という古写本を円寿寺の新国西新氏が持っている。それには、 「稲荷町あり。柳の木樹の傍に生茂し爰の南角に斎藤洞水と云える者あり。俳諧を好み洞水と号す。本名宗右衛門真貞。享保十五年十月九日没す。元禄二年、芭蕉翁来り洞水か家に宿して吟せしと云える古句あり。奥に来てここに早稲田や門柳」 とある。これでみると、稲荷町の齋藤という家であることは信じたい。ところで、享保十五年に没した宗右衛門は、現在の「つたやゴム店」(旧国道通り)の先祖であることがわかった。その頃宿屋をしていたか、また俳諧人がいたかは、残念ながら資料がなく(火災焼失)調査不能となったが、稲荷町に住んでいたことはわかった。齋藤家の祖先は蒲生氏郷の東国入りで、その頃から郡山に住みついた旧家の分れである。元禄の頃は、稲荷町と云ったあたりに住んでいた。してみると現在「芭蕉通り」といっているあたりにあったことは間違いではない。 ただ「奥に来てここに早稲田や門柳」の一句をものにしたというのは、筆者の筆のすさびであろう。 (郡山市刊「郡山の歴史」) |
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| ○第6集 芭蕉と郡山 ○奥州道中 増補行程記 - 安積郡(1) 郡山(1) ○奥州道中 増補行程記 - 安積郡(2) 郡山(2) |
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5月1日〜2日(新暦6月17日〜6月18日) |
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| 1日-福島、2日-飯塚(飯坂) -福島県- | ||
| 「おくのほそ道」本文からの情報 [資料] | ||
| あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。 (「信夫の里」の章段) 月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半斗に有。飯塚の里鯖野と聞て尋ね尋ね行に、丸山と云に尋あたる。是、庄司が旧館也。梺に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。 (中略) 五月朔日の事也。 (「佐藤庄司が旧跡」の章段。随行日記では「二日」) 其夜飯塚にとまる。 (「飯塚温泉」の章段) |
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| 「曽良随行日記」からの情報 [資料] | ||
| おくのほそ道・旅の宿 | ||
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5月1日 宿泊地-福島 宿泊先不明 5月2日 宿泊地-飯塚(飯坂) 宿泊先不明 写真は「月の輪の渡し跡」の碑。 |
久方ぶりの道中も、2日続けて快晴となって順調な旅が続き、5月1日は、歌枕として名を馳せた安積山(郡山)、黒塚(二本松)を見物。この日、郡山から40km以上を踏破し、夕刻前、福島領内に入った。 芭蕉は、その足で郷の目村の「神尾氏」を訪ねたが、生憎出府中で旧交を暖めることはできなかった。 5月1日の宿については「宿キレイ也。」と日記にあるだけで、詳細は不明だが、「福島市史-近世U」によれば、当時、城下で旅籠屋があったのは北町付近で、明治期、地元の俳人達は、同町内にある石橋「翁橋」を芭蕉ゆかりの史跡として注目していたという。 本書は、「神尾氏」のことを「明らかでない」としながらも、下記の通り、その家系などについて委細を記し、「神尾氏」が堀田相模守家中の「神尾五左衛門」であることを説いている。 5月2日の飯塚(飯坂)における宿泊については下記ページを参照。 ○芭蕉について-福島 ○飯坂温泉について |
| 神尾氏については明らかでない。佐倉堀田家文書「年寄部屋日記」元禄二年三月・四月の条に神尾図書、同三年四月の条に神尾主馬の名があり、神尾氏は堀田家中では大身で、菩提寺仁井田の宝勝寺に一族の墓がある。ところが、郷野目村名主役をやった尾形庄吉家に極めて重大な記録がある。二代目庄十郎(正十郎勝富)が大力で木村庄之助から免許を得た相撲軍配の箱に、天保九年(十八三八)三代目尾形宗右衛門(惣右衛門)が、箱書したものによれば、 五百石之百姓也。堀田相模守家中神尾五左衛門へ家督渡ス。本家尾形庄右衛門同庄吉兄弟也。 とある。これによると、尾形家は禄高五百石の家柄で、堀田時代に神尾五左衛門に家督を譲って帰農したことを示すもので、「随行日記」にある神尾氏は、この五左衛門に符合し、芭蕉が一宿を予定していた家は、この尾形家と見なされる。とも角、「奥の細道」研究に新しい事実を提示したものとして特筆しておく。時代は下るが尾形惣右衛門勝富は有光と号する俳諧師として知られる点も併せて記しておく。 芭蕉は、主人が不在だというので、夫人と母堂に挨拶して福島町に泊まった。前述のように、堀田の家中には大淀三千風と交友した風流の士もおり、芭蕉と神尾氏は当主のみの知己ではなく、夫人・母堂とも顔みしりの間柄であったように推量される。 (「福島市史-近世U」) |
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| ○第8集 芭蕉と福島 ○佐藤一族と義経について ○文知摺石同観世音境内之図 ○奥州道中 増補行程記 - 福島(1) ○奥州道中 増補行程記 - 福島(2) ○奥州道中 増補行程記 - 福島(3) 信夫文知摺石 |
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