| 序 文 | 現代語訳 | |
| 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置。 |
月日というのは、永遠に旅を続ける旅人のようなものであり、来ては去り、去っては来る年もまた同じように旅人である。船頭として船の上に生涯を浮かべ、馬子として馬の轡(くつわ)を引いて老いを迎える者は、毎日旅をして旅を住処(すみか)としているようなものである。古人の中には、旅の途中で命を無くした人が多くいる。わたしもいくつになったころからか、ちぎれ雲が風に身をまかせ漂っているのを見ると、漂泊の思いを止めることができず、海ぎわの地をさすらい、去年の秋は、隅田川のほとりのあばら屋に帰ってクモの古巣を払い、しばらく落ち着いていたが、しだいに年も暮れて、春になり、霞がかる空をながめながら、ふと白河の関を越えてみようかなどと思うと、さっそく「そぞろ神」がのりうつって心を乱し、おまけに道祖神の手招きにあっては、取るものも手につかない有様である。そうしたわけで、ももひきの破れをつくろい、笠の緒を付けかえ、三里のつぼに灸をすえて旅支度をはじめると、さっそくながら、松島の名月がまず気にかかって、住まいの方は人に譲り、旅立つまで杉風の別宅に移ることにして、その折に、 人の世の移ろいにならい、草葺きのこの家も、新たな住人を迎えることになる。これまで縁のないことではあったが、節句の頃には、にぎやかに雛をかざる光景がこの家にも見られるのであろう。 と発句を詠んで、面八句を庵の柱にかけておいた。 |
貞亨5年(1688年)の9月30日に年号が「元禄」となり、その半年後の元禄2年(1689年)2月(旧暦)末、芭蕉は「おくのほそ道」の旅を前にして第二次芭蕉庵を手放し、出立の日まで杉風の別墅採荼庵で仮住まいをした。採荼庵は仙台堀に架かる海辺橋の南詰にあった。芭蕉は、翌月27日早朝、ここを立って見送りの門人とともに仙台堀に浮かぶ船に乗り、隅田川をさかのぼった。 |
| 旅 立 ち | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
![]() 弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。 行春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。 |
三月も末の二十七日、あけぼのの空がおぼろに霞み、月は有明けの月でうすく照らしているので富士山の嶺がかすかに見わたすことができる。上野や谷中の桜の梢はいつまた見られるかと心細い思いにかられる。私を思ってくれている弟子たちはみな昨夜から集まり、一緒に船に乗りこんでくれた。千住というところで船をあがれば、前途はるかな道のりの一歩を踏み出したことに胸がいっぱいになり、この世は夢、幻とは思いつつも、道に立つと切ない別れで涙がとめどなく流れた。 厳寒の冬は身にこたえ、それだけにうららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。 これを、旅の句の初めとして足を踏み出すが、名残りが尽きず、なかなか先に進まない。別れに来てくれた人々は道に立ち並んで、姿が見えなくなるまで見送ってくれるのだろう。 |
巳三月廿日 日出、深川出船。巳ノ下尅 千住二揚ル 出立日について 曽良の随行日記では出立日が3月20日とされているが、岐阜の門人安川落梧に宛てた元禄2年3月23日付芭蕉書簡が見つかり、その中に「此廿六日江上を立ち出で候」と書かれていることから、現在は、26日の出立を予定したが、天候などの都合で一日延期し、翌27日に深川を立ったのだろうという見解が一般的になっている。 |
| 草 加 | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
![]() ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物、先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。 |
ことし、元禄二年にあたるのだろうか、奥羽への長旅をただなんとなく思い立ち、遠い辺境の空のもとで辛苦のために白髪になってしまうようなことが度重なろうとも、話に聞く未見の土地を訪ね、もし生きて帰ることができればと、かすかな望みをかけて歩を進め、その日、ようやく早加(草加)という宿にたどり着いたのだった。やせ細って骨ばる肩にかかる荷でまずは苦しむこととなった。ただ身一つで旅立とうとしたのだが、夜の寒さを防ぐ紙子一着、ゆかた、雨具、墨筆のたぐいは欠かすことができず、あるいは断れずに受け取った餞別もやはり捨てることができず、道すがらの苦労となったのは仕方のないことである。 第16集 芭蕉と草加 旧暦:3月 草加: 27日 春日部:27日〜28日 新暦:5月 草加: 16日 春日部:16日〜17日 ■埼玉県地図 芭蕉と草加市 |
一 廿七日夜 カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。 第1日目の宿泊地について 「おくのほそ道」には「其日漸(ようよう)早加(草加)と云宿にたどり着にけり」とあって、第1日目の宿泊地が草加宿のように読みとれるが、曽良の随行日記には「廿七日夜
カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余」と記されている。随行日記には創作的な性格がなく、ただ日々の道中を坦々と綴るものであるから、第1日目の宿泊先は、日記にある通り粕壁(春日部)と見ていいだろう。それではなぜ、「おくのほそ道」で「漸早加と云宿に」と記したのだろうか。次の2つの章段を通して読むことにより、そうしたことの背景が見えてくる。 |
| 室 の 八 島 | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
![]() 室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。 |
室の八島に参詣する。同行の曽良が言うには、「ここの祭神は木花咲耶姫の神と申して富士山と同じ神です。咲耶姫は無戸室(うつむろ。四方を塗りふさいで、出入り口をなくした室)に入って火を放ち、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと身の潔白を誓い、燃え盛る炎の中、無事火々出見のみことをお生みになったことから、ここを室の八島と申します。また、室の八島の歌に煙を詠む習わしがあるのもこの謂れからです」と。それからまた、ここでは「このしろ」という魚を食することを禁じている。こうした縁起の趣旨が世に伝わることもあるようである。
第17集 芭蕉と室の八島 旧暦:3月 間々田: 28日〜29日 室の八島:29日 鹿沼: 29日〜4月1日 元禄2年の3月は29日迄 新暦:5月17日〜19日 ■栃木県地図 芭蕉と栃木市・小山市 室の八島-詳細 |
一 廿八日 マヽダニ泊ル。カスカベヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。辰上尅止ニ依テ宿出。間モナク降ル。午ノ下尅止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入。 一 廿九日 辰ノ上尅マヽダヲ出。 一 小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右(左の誤り)ノ方ニ有。 一 小田(小山のこと)ヨリ飯塚ヘ一リ半。木沢ト云所ヨリ左ヘ切ル。 一 此間姿川越ル。飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハヅレヨリ左ヘキレ、(小クラ川)川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤガシト云船ツキノ上ヘカヽリ、室ノ八嶋ヘ行(乾ノ方五町バカリ)。スグニ壬生ヘ出ル(毛武ト云村アリ)。此間三リトイヘドモ、弐里余。 一 壬生ヨリ楡木ヘ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。 ![]() |
| 仏五左衛門・日光山 | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
卅日、日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無分別にして、正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気禀の清質尤尊ぶべし。卯月朔日、御山に詣拝す。往昔此御山を二荒山と書しを、空海大師開基の時、日光と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや。今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。 あらたうと青葉若葉の日の光 黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。 剃捨て黒髪山に衣更 曽良 曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく。このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、且は羈旅の難をいたはらんと、旅立暁髪を剃て墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。「衣更」の二字力ありてきこゆ。 廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。 暫時は瀧に籠るや夏の初 |
三十日、日光山の麓の家に泊る。そこの主人が言ったことには、「私は名を仏五左衛門といいます。何につけても正直を信条としていることから、世間の人は仏などと申しておりますので、一夜の旅寝もくつろいでお休みになってください」という。どのような仏が、けがれたこの世にあらわれ、このような僧侶姿をした乞食、順礼などという者をお助けになるのかと、主人の振る舞いに心をとどめてみると、ただ智恵や分別を利かしているわけではなく、正直一点張りの人物であり、まさに、「論語」にある「剛毅朴訥仁に近し」を地でいくような人物で、この生まれつき清らかな気立ては、最も尊ぶべきである。 四月一日、日光山に参詣する。その昔、この御山を二荒山と書いたが、空海大師が開基の時に日光と改めなさった。千年後の将来を推しはかってのことだったろうか。今になって、ここ日光山東照宮のご威光が天下に輝き、そのお恵みは国の八方の果てまで行き渡り、士農工商の民がすべて安堵な暮しができ平穏である。なお、これ以上日光山にふれるのは恐れ多いので、このあたりで筆をおくことにする。 青葉や若葉に差し込む日の光は、この日光山が国の八方まで放つご威光そのもので、実に尊いものであるよ。 黒髪山は霞がかって、雪が今なお白く残っている。 黒髪を剃り捨てて墨染めの衣で行脚の旅に出たが、おりしも今日は四月の一日。衣更えの日をこの黒髪山の麓で迎えることになったとは。 曽良は河合氏で、名を惣五郎という。深川の芭蕉庵と軒を並べるようにして住み、家事の労を助けてくれている。このたび松島や象潟を共に眺めることを喜び、さらには旅の辛さをいたわってくれようとして共に旅立ち、その朝に黒髪を剃って墨染めの僧衣をまとって姿を変え、惣五を宗悟に改めた。このような経緯から黒髪山の句が作られた。「衣更」の二字に、本来の衣更えと行脚の決意が共に感じられ、力強く聞こえる。 二十余町山を登ったところに滝がある。くぼんだ岩の頂から、百尺ほども飛ぶかと思われる勢いで、多くの岩を畳んだ青々とした淵に落ち込んでいる。岩窟に身をひそめて入り込み、滝の裏から眺められるので、この滝を裏見の滝と言い伝えている。 轟く水音のみを聞いて滝裏にしばらくこもれば、雑念が払われ、まるで夏行の初めのような境地となるのである。 第18集 芭蕉と日光 旧暦:3月 鹿沼:29日〜4月1日 今市: 1日 日光: 1日〜2日 玉生: 2日〜3日 元禄2年の3月は29日迄 新暦:5月 鹿沼:18日〜19日 今市:19日 日光:19日〜20日 玉生:20日〜21日 ■栃木県地図 芭蕉と日光市 日光の二社一寺-詳細 |
(廿九日) 一 にれ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。 一 昼過ヨリ曇。同晩、鹿沼(ヨリ火バサミヘ弐リ八丁)ニ泊ル。(火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ヨリ鉢石ヘ弐リ。) 一 四月朔日 前夜ヨリ小雨降。辰上尅、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日雲、午ノ尅、日光ヘ着。雨止。清水寺の書、養源院ヘ届。大楽院ヘ使僧ヲ被添、折節大楽院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。壱五貳四。 一 同二日 天気快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原ヘ趣、常ニハ今市へ戻リテ大渡リト云所ヘカヽルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左へノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村ヘカヽリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。 〇今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。 〇大渡ヨリ船入(船生)ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ(仮)橋有。大形ハ船渡し。 〇船入(船生)ヨリ玉入(玉生)ヘ弐リ。未ノ上尅ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入(玉生)ヘ着。 一 同晩 玉入(玉生)泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。 一 同三日 快晴。辰上尅玉入(玉生)ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。 芭蕉が訪れたときの日光東照宮 芭蕉が日光を訪れた元禄2年(1689年)の4月ごろは、日光山の大修復の準備がたけなわとなっていた時期で、山内に多くの関係者が出向いていた。日光で「あらたうと青葉若葉の日の光」の句を詠じ、日光山の威光を称えた芭蕉ではあるが、山内をゆっくり廻ることは難しかったに相違ない。 |
| 那須野・黒羽・雲巌寺 | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかゞすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名をかさねと云。聞なれぬ名のやさしかりければ、かさねとは八重撫子の名成べし 曽良 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て、馬を返しぬ。 黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞ば、感應殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
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那須の黒羽というところに、知人がいるので、ここから那須野の原に足を踏み入れ、近道をして真っ直ぐ行くことにする。はるかに一つの村を見かけて行くうちに、雨が降り出し、日も暮れてしまった。農夫の家に一夜を借り、夜が明けてまた野中を歩いて行く。その途中に、野原に放し飼いの馬がいた。草を刈る男に、馬を貸してくれるよう嘆いたのだが、いなかの百姓とはいえ十分に温情のある人だった。男は、「どうしましょうか。馬を使わないで行くとしても、この野原は縦横に道が分かれ、歩き慣れない旅人は道を踏み違えるでしょう。心配ですので、この馬で行って、止まったところで馬を返してくさだい」と言って、馬を貸してくれた。小さい子供が二人、後を追って走ってくる。そのうちの一人は小さい娘で、名を「かさね」という。聞き慣れない名前だが、優美で風情のある響きがあるので、曽良が一句したためた。 このような片田舎で、思いもよらず、なかなか上品で美しい響きの「かさね」という名の小さい娘に出会った。花なら、さしずめ、花びらが重なって美しい八重撫子の名と言ったところであるよ。 やがて人里に至り、お礼のお金を鞍つぼに結わえ付けて、馬を返したのだった。 黒羽の館代である浄坊寺何がしという人のところを訪ねた。思いがけない私たちの訪問に主人は喜び、日夜語りつづけた。その弟の桃翠という人が、まめに来てくれたり、自分の家にも招き、親戚の家にも招待された。このようにして日が経つなかで、あるひ、郊外に散歩に出かけ、犬追物(いぬおうもの)の跡を一とおり見たあとで、那須の篠原に分け入って玉藻の前の古い墓を訪ねた。それから金丸八幡宮に詣でる。那須与一が、平家方がかざした扇の的を射ようとしたとき、「別しては我国氏神正八まん」と誓って祈願したのもこの神社であると聞くと、ことさら、ありがたみを強く感じたのだった。日が暮れたので桃翠宅に帰った。黒羽には修験光明寺という名の寺がある。そこにまねかれて、高足駄をはいた役行者の像を祭る行者堂を参拝した。 みちのくへの長途の旅を前にして、北方はるかに連なる奥羽の山並をうかがいながら、役行者と高足駄に旅の無事と健脚を祈って手を合わせたのである。 この下野国の雲巌寺の奥に、仏頂和尚の山居跡がある。和尚は、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と松の炭で傍らの岩に書き付けましたよ、といつぞや語っておられた。その跡を見ようと雲巌寺に行こうとすると、人々が進んで共に誘い合い、多くの若い人が道々にぎやかに騒ぎ、気が付けば山寺の麓に着いていた。山は奥深い景色であり、谷道は遥かに続き、松や杉はあたりを暗くし、苔はみずみずしく輝き、卯月というのに寒々としている。十景が尽きる所の橋を渡って山門に入る。さて、仏頂和尚の山居跡はどこにあるのかと、寺の背後の山によじ登ると、岩の上に、小さな庵が岩窟に立てかけるようにして築かれていた。中国の高僧妙禅師が「死関」の額を掲げて修行した洞穴や法雲法師が身を置いた大岩の上の居所を見るような思いがした。 さすがのきつつきも、仏頂和尚の結んだ山居だけはやぶろうとはしないようだ。こうして、うっそうとした木々の中に和尚が修行した庵を拝見することができたのはありがたいことだ、と感じ入り、取り敢えず一句を書いて柱に残したのだった。 第19集 芭蕉と那須野が原 旧暦:4月3日〜20日 大田原:3日 余瀬: 3日〜 4日 黒羽: 4日〜11日 余瀬:11日〜15日 黒羽:15日〜16日 高久:16日〜18日 湯本:18日〜20日 芦野:20日 新暦:5月21日〜6月7日 大田原:21日 余瀬:21日〜22日 黒羽:22日〜29日 余瀬:29日〜6月2日 黒羽: 2日〜 3日 高久: 3日〜 5日 湯本: 5日〜 7日 芦野: 7日 ■栃木県地図 芭蕉と那須野が原 旧黒羽町−詳細 |
(同三日) ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。 一 四日 浄法寺図書ヘ被招。 一 五日 雲岩寺見物。朝曇。両日共ニ天気吉。 一 六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ被招。昼ヨリ夜五ツ過迄ニシテ帰ル。 一 十日 雨止。日久シテ照。 一 十一日 小雨降ル。余瀬翠桃ヘ帰ル。晩方強雨ス。 一 十二日 雨止。図書被見廻、篠原被誘引。 一 十三日 天気吉。津久井氏被見廻テ、八幡ヘ参詣被誘引。 一 十四日 雨降リ、図書被見廻終日。重之内持参。 一 十五日 雨止。昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ被参。是ハ昨日約束之故也。予ハ少々持病気故不参。 一 十六日 天気能。翁、館ヨリ余瀬ヘ被立越。則、同道ニテ余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。此間弐里余。 黒羽における芭蕉の14日間の足跡 3日
【余瀬に到着、翠桃邸へ】 |
| 殺生石・遊行柳 | 現代語訳 | 曽良随行日記 |
![]() 是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、短冊得させよと乞。やさしき事を望侍るものかなと、 又、清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田の畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
|
これより殺生石に行く。館代が馬で送ってくれた。この馬を引く男が「短冊に一句書いてくれませんか」とせがんだ。風流なことを望むものだと感心し、応えてあげた。 どこやらでほととぎすが鳴いているよ。さあ、聞こえる方に馬を差し向けて、いっしょに聞こうではないか。 殺生石は温泉の出る山陰にある。石の毒気はいまだになくなっていない。蜂や蝶のたぐいが、地面の砂の色が見えないほど重なって死んでいた。 また、西行が「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳は、芦野の里にあり、田の畔に残っている。この地の領主の戸部なにがしが「かの柳をお見せしたい」などと、折々におっしゃっていたので、どの辺にあるのかと思っていたが、今日、とうとうこの柳の陰に立ち寄ったのだった。 遥かと思っていた柳が目の前にあり、その木陰でしばらく安らかにしていると、いつのまにか、田植えが一枚分終わって早乙女たちの声が消え、ぽつんととり残されてしまった。それでは、私もここを立ち去って旅を続けるとしよう。 第19集 那須野が原 旧暦:4月3日〜20日 大田原:3日 余瀬: 3日〜 4日 黒羽: 4日〜11日 余瀬:11日〜15日 黒羽:15日〜16日 高久:16日〜18日 湯本:18日〜20日 芦野:20日 新暦:5月21日〜6月7日 大田原:21日 余瀬:21日〜22日 黒羽:22日〜29日 余瀬:29日〜6月2日 黒羽: 2日〜 3日 高久: 3日〜 5日 湯本: 5日〜 7日 芦野: 7日 ■栃木県地図 芭蕉と那須野が原 |
(十六日) 高久ニ至ル。雨降リ出ニ依、滞ル。此間弐里半余。宿角(覚)左衛門、図書ヨリ状被添。 一 十七日 角(覚)左衛門方ニ猶宿。雨降。野間ハ太田原ヨリ三里之内鍋かけヨリ五、六丁西。 一 十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角(覚)左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本ヘ三リ。未ノ下尅、湯本五左衛門方ヘ着。 一 一九日 快晴。予、鉢ニ出ル。朝飯後、図書家来角左衛門ヲ黒羽ヘ戻ス。午ノ上尅、温泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬(射)残ノカブラ壱本・征矢十本・蟇目ノカブラ壱本・檜扇子壱本、金ノ絵也。正一位ノ宣旨・縁起等拝ム。夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。以上湯数六ヶ所。上ハ出ル事不定、次ハ冷、ソノ次ハ温冷兼、御橋ノ下也。ソノ次ハ不出。ソノ次温湯アツシ。ソノ次、湯也ノ由、所ノ云也。温泉大明神ノ相殿ニ八幡宮ヲ移シ奉テ、両神一方ニ拝レサセ玉フヲ、 湯をむすぶ誓も同じ石清水 翁 殺生石 石の香や夏草赤く露あつし 正一位ノ神位被加ノ事、貞享四年黒羽ノ館主信濃守増栄被寄進之由。祭礼九月廿九日。 一 廿日 朝霧降ル。辰中尅晴。下尅、湯本ヲ立。ウルシ塚迄三リ余。半途ニ小や村有。ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。湯本ヨリ総テ山道ニテ能不知シテ難通。 一 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、木戸ノ外、茶ヤ松本市兵衛前ヨリ左ノ方ヘ切レ、八幡ノ大門通リ之内(十町程過テ左ノ方ニ鏡山有)。左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四、五丁之内二愛岩(宕)有。其社ノ東ノ方、畑岸ニ玄仍(兼載の誤り)ノ松トテ有。玄仍ノ庵跡ナルノ由。其辺ニ三ツ葉芦沼有。見渡ス内也。八幡ハ所之ウブスナ也。市兵衛案内也。スグニ奥州ノ方、町ハヅレ橋ノキハヘ出ル。 一 芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。 ![]() |
本文・曽良随行日記の現代語訳および句の解釈
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曽良随行日記は「俳聖
松尾芭蕉・みちのくの足跡」のシリーズ「芭蕉について」からそのまま
転記しています。
ただし、章段によっては、滞在日に合わせて元のテキストを分割して掲載しているのもあります。
出典データベース
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俳聖
松尾芭蕉・みちのくの足跡
底本について
「おくのほそ道」は、敦賀の西村家に伝えられている素龍清書の「西村本」を底本としています。
句読点や章段ごとの見出しは「俳聖
松尾芭蕉・みちのくの足跡」の中で任意に付したものであり、
「おくのほそ道」の本文に存在するものではありません。
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