白河に置かれた古代の関がどこかについては、古来、多様に言い伝えられているが、寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信が地図や歴史書、詠歌、老農の話をもとにして此こそ古代白河の関の地と定め、旗宿の地に古関蹟碑を建立した。松平定信は、八代将軍徳川吉宗の子である国学者・歌人の田安宗武の3男で、陸奥白河藩主となり白河楽翁を号した。定信は老中の職にあった天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)までの間に、享保、天保の改革とともに江戸幕府三大改革の一つとされる「寛政の改革」を断行し、幕藩体制の建て直しをはかった。

白河関跡、堙没(いんぼつ)シテソノ處所ヲ知ラザルコト久シ。旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ。地、隆然トシテ高ク、イワユル白河ソノ下ヲ遶(めぐ)リテ流ル。コレヲ図・史・詠歌ニ考エ、マタ地形ヲ老農ノ言ニ徴スルニ、コレソノ遺址タルハ、較然トシテ疑ハザル也。スナワチ碑ヲ建テ、以テ標スルコトシカリ。
寛政十二年(1800年)八月一日 白河城主・従四位下・左近衛少将兼越中守・源朝臣定信識
(松平定信が建てた古関蹟碑の内容<原文は漢文>)
昭和34年(1959年)から38年にかけて、定信が定めた地が古関跡か否かを実証的に確認するため発掘調査が行われ、その結果、柵列、柱列、門(推定)の跡など、古代の関の構造を示すものが確認されている。その後、昭和41年(1966年)になって旗宿の地が古代の白河の関跡と認められ国の史跡に指定されたが、その後も、古代の白河の関の所在については種々論じられ、現在に至っている。
旗宿を通る道は、現在、その西を走る国道4号線や294号線に優位性を譲っているが、古代においては極めて重要な役割を担った大道で、東山道の一部として機能した。東山道は、6世紀ごろから開かれた官道で、京都から、近江、美濃、信濃、上野、下野の各国府を経て、多賀城に達する律令国家の基幹道であった。宝亀5年(744年)から弘仁2年(811年)の間は蝦夷との戦いで軍道と化し、出羽国の秋田城まで延長された。
旗宿の道は、源義経が治承4年(1180年)4月に旗揚げした源頼朝に参陣するため鎌倉に急いだ、いわゆる義経街道であり、頼朝の大軍が奥州藤原の討伐を画し平泉を目指した道でもある。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」の文治5年(1189年)7月29日の条に、軍勢が白河の関を越えた時の様子が次のように記されている。

白河の関を越え給う。関の明神に御奉幣。この間景季を召す。當時は初秋の候なり。
能因法師が古風、思い出でざるやの由仰せ出さる。景季馬を扣え一首を詠ず。
秋風に草木の露をば払はせて君が越ゆれば関守も無し。 (吾妻鏡)
(「関守も無し」は、当時、白河の関が機能していないことを言い含んでいる可能性もあるので、「白河の関を越え給う」とはあるが、この文章から、「当時まだ白河の関が存在していた」と断定することはできない。)
中世の白河の関はどこか
文治5年(1189年)、藤原泰衡が殺されて平泉政権が崩れると、奥州は幕府の支配下に置かれ白河地方は源頼朝の乳兄弟・結城朝光が治めることとなった。その居城が搦目山に置かれたことから、借宿、関和久にあった白河の古代の中心地が西に移動し、これにともなって、中世以降、要となる街道が旗宿の道から西方の奥州街道に移り、下野との境に新たな白河の関が築かれたと見られる。
結城氏の文書に「関を警固し、不審の輩は逮捕せよ。一般の商人旅人は自由に通行させよ」といった内容が見られると金子誠三著「白河の関」にあり、その関の所在地については、境の明神が建つ奥州街道の国境の地と見られている。古来、旗宿の「古関」に対して「新関」と呼ばれているのは此の地である。
奈良、平安初期のころ、国境の明神に男女二神を祭るのが通例で、奥州街道の国境の明神二社もこの様式で祭られた。この二社は、内は女神(玉津島明神)が守り、外に対しては男神(住吉明神)が守るという考えからか、古来、福島(白河市)に建つ明神は、福島側では「玉津島神社」だが、栃木側では「住吉神社」であり(説明)、栃木(那須町)に建つ明神もこれと同様、逆の社名となる。
白河における芭蕉の動向
元禄2年(1689年)4月20日(新暦6月7日)
芭蕉は、芦野で遊行柳を見物したのち奥州街道から寄居を経由し、「おくのほそ道」の冒頭に「白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」と書いた白河の地にいよいよ足を踏み入れた。

関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間廿間計有。両方ノ門前ニ茶や有。小坂也。これヨリ白坂ヘ十町程有。古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏宿ヘ行。(曽良随行日記)
芭蕉一行が奥州に入って初めに目にしたのは、国境に二社が建つ境の明神であった。当時は日記にあるように明神峠の小坂を登ったところに奥州側の神社があったが、今は、切り通しの道から石段を登るようになっている。日記に書かれた門前の茶屋は今は無く、茶屋の子孫にあたる方が神社の向い側に居を構えている。
曽良は此所の明神を「関明神」と書いているが、当時、明神のあたりに関はなく、口留番所すらなかった。曽良が「関・・」と記した事情については、寛政9年(1797年)に松平定信が著わした「退閑雑記」からうかがい知ることができる。

白坂へいたる。例のごとく境明神へまうでぬ。こゝを関明神などいひて、白川の関の旧跡といふ、あやまりなり。此みちははるか後にひらけしなり。もとは旗宿の道に小川あり、いまも白川といふ。此川あたりに玉つしま明神と住吉明神をまつりたる、こゝが古関のあとなり。其関のほとりゆへに関山てふ名もあるなり。
(松平定信「退閑雑記」)
曽良の日記を更に読むと、「関明神」のところから「古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ籏(旗)宿ヘ行。」とある。日記に「古関・・・旗宿・・・」と書いたのは、曽良が旗宿に古代の白河の関が存在したことを予め把握していたからで、旅立つ前に準備した曽良の名勝備忘録には、白河の関が次のように記されている。ただし、4月21日の日記や芭蕉の書簡から判断して、旗宿のどこが古関の跡かについての確証は得られていない。

白河関 下野・奥州ノ堺。並テ両国ノ堺明神両社有。前ハ茶屋ナリ。古ノ関ハ東ノ方二リ半程ニ旗ノ宿ト云有。ソレヨリ一リ程下野ノ方、追分ト云所ナリ。今モ両国ノ堺ナリ。
(名勝備忘録)
白坂から旗宿まで旅した道順については、金堀を経由して「庄司戻し」付近に出るルートや、和平を経由して白河の関跡付近に出るルートが考えられが、現在のところ根拠が無く、一つに定めることができない。

廿日之晩泊ル。暮前ヨリ小雨降ル。(籏ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也。土中古土器有。寄妙ニ拝。) (曽良随行日記)
「庄司戻し」は、次のような義経と佐藤庄司親子にまつわる伝説の地である。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した時、義経は奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは基治の子、継信(つぐのぶ)と忠信が加わった。この時基治は旗宿まで2人を見送り、別れの時、桜の杖を地面に突き刺して、忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろうと励まして福島に戻った。それ以来この地は「庄司戻し」と呼ばれ、根づいた桜は毎年花を咲かせたという。
元禄2年(1689年)4月21日(新暦6月8日)
4月21日の動向を記す前に、昔、国境に祭る習わしのあった明神が、白河においてはどこに、何箇所存在していたか見ておきたい。
「白河市史 第九巻
民族編」によれば、白河には一所に玉津島明神と住吉明神を祭るところが3箇所あったという。1つ目は既述の白坂の境の明神で、栃木側に一社、福島側に一社が現存している。2つ目は旗宿南の国境にあった明神で、白坂と同様、国境の両側に二社あったといわれるが、現存するのは栃木側の一社のみである。この明神は「追分の明神」と呼ばれるが、「境の明神」とも「住吉玉津島神社」とも「関東宮」とも称される。
そして3つ目は、曽良日記に「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉(津)島ヲ一所ニ祝奉宮有。」と書かれ、古関蹟碑に「旗宿村ノ西ニ叢祠(草木に埋もれた祠)アリ。」と記された明神、すなわち、現在の「史蹟
白河関跡」の地にあったとされる明神である。「白河風土記」には、その昔、当地に住吉神社と玉津島神社の二社が建ち、その内の一社・住吉神社が「南ノ方小山ノ上ニアリ」、境内に「従二位杉(関跡に現存)」、「関の樅(関跡で大正末枯死)」などが植えられている、とある。この住吉神社は、現在の白河神社の前身である。
曽良日記と松平定信が建てた古関蹟碑の両方で古関跡を旗宿の「西」としているが、現在の地形では紛れもなく「南」である。この事情については、次の3通りが考えられるが、この内のどれかは不明である。「当代の最もすぐれた知識人」と言われた定信が、測量学に長けた曽良が、果たして方角を誤るかは大いに疑問だが、「白河風土記」に書かれた「南ノ方小山ノ上ニアリ」の10文字を拠り所に(1)を選択しておくのが無難だろう。
(1)両者ともに南を西と誤った。
(2)当時、旗宿の中心地が古関跡の東にあった。
(3)定信が、古代の白河の関が旗宿の西の小山にあったと定め、そこに古関蹟碑を建てたのだが、後年になって古関蹟碑が現在の位置に移された。

廿一日 霧雨降ル、辰上尅止。宿ヲ出ル。町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。
(曽良随行日記)
4月21日の早朝、芭蕉は宿の主人に上の3つ目の明神が旗宿にあることを教えられ参拝に赴いた。向かう先に古代の白河の関の痕跡があることを念じて。しかしながら、「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、・・・」と綴られた白河の関の残影はなく、ただ、叢祠のみが芭蕉を出迎えた。芭蕉が白河の章段を古歌の詞で埋め尽くしたのは、伝統的歌枕の関の地を、古の歌人に敬意を払いつつ数々の古歌を追懐しながら越えたことに拠ると考える以外に、白河において、ついに関越えの情趣に浸れなかったことも大きな要因になっているように思われる。
日記の同日条に、須賀川の相良等躬が上の2つ目の明神の存在を教えたとある。これは「名勝備忘録」にも記された明神であったが、参詣に出向くことはなかった。また、古来、旗宿の北に位置する関山を古代の白河の関とする見方があり、芭蕉はこの伝承を手がかりにして関山に登ったが心を満たすことはできなかったようである。

〇白河ノ古関ノ跡、籏ノ宿ノ一里程下野ノ方、追分ト云所ニ関ノ明神有由。相楽乍憚ノ伝也。
(曽良随行日記) |