| 芭蕉について |
芭蕉の門人たち 芭蕉の弟子は全国に数多くいたが、中でも、師匠である芭蕉をよく研究し、多くの作品を残した弟子を10人挙げて「蕉門十哲」と言う。 |
杉山杉風(すぎやま さんぷう) 1647〜1732 河合曽良(かわい そら) 1649〜1710 志太野坡(しだ やば) 1662〜1740 「おくのほそ道」と須賀川/曽良随行日記 |
| 「おくのほそ道」と須賀川 | |
| 元禄2年(1689年)4月22日(新暦6月9日)〜4月29日(新暦6月16日) | |
| 曽良随行日記<原文> | 現代語 |
| 一 廿二日 須か川、乍単斎(相楽等躬)宿、俳有。 廿三日 同所滞留。晩方ヘ可伸ニ遊、帰ニ寺々八幡ヲ拝。 一 廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、そば切。祐碩賞之。雷雨、暮方止。 廿五日 主物忌、別火。 廿六日 小雨ス。 一 廿七日 曇。三つ物ども。芹沢の滝へ行。 一 廿八日 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。十念寺( 1 2)・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。 一 廿九日 快晴。巳中尅、発足。石河滝(乙字ケ滝)見ニ行。(此間、さゝ川ト云宿ヨリあさか郡) 須か川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。滝ヨリ十余丁下ヲ渡リ、上ヘ登ル。歩ニテ行バ滝ノ上渡レバ余程近由。阿武隈川也。川ハヾ百二、三十間も有之。滝ハ筋かヘニ百五、六十間も可有。高サ二丈、壱丈五、六尺、所ニヨリ壱丈計ノ所も有之。 |
一 廿二日 須賀川、乍単斎(相楽等躬)に宿す、俳席有り(「風流の初やおくの田植うた」を発句とし、芭蕉、等躬、曽良で三吟歌仙が開かれた)。 廿三日 等躬宅に滞留。晩方可伸庵に遊び、帰りに寺々、八幡神社を参拝。 一 廿四日 等躬宅で田植え。昼過ぎより可伸庵で会(「かくれ家や目だゝぬ花を軒の栗」<伊達衣>を発句とした七吟歌仙。連衆は、芭蕉、栗斎<可伸>、等躬、曽良、等雲、須竿、素蘭)有り。 祐碩(等雲)ふるまいの会席、そば切りを賞味する。雷雨、暮方止む。 廿五日 等躬、物忌(ぶっき。ものいみ。ある期間、飲食・行為を慎んで身体を清め、不浄をさけた)に入る。別火(物忌の期間、けがれにふれないよう別にきり出した火で煮炊きした)。 廿六日 小雨降る。 一 廿七日 曇り。三つ物と四句の俳席あり。芹沢の滝へ行く。 ○「三つ物ども」は、曽良の「俳諧書留」に書かれた次の三つ物(発句・脇句・第三句)2つと四句を指す。 (三つ物) 旅衣早苗に包食乞ん いたかの鞁あやめ折すな(翁) 夏引の手引の青苧くりかけて(等躬) (三つ物) 茨やうを又習けりかつみ草(等躬) 市の子どもの着たる細布(曽良) 日面に笠をならぶる涼して(翁) (四句) 芭蕉翁、みちのくに下らんとして、我蓬戸を音信て、猶白河のあなた、すか川といふ所にとゞまり侍ると聞て申つかはしける。 雨晴て栗の花咲跡見哉(桃雪) いづれの草に啼おつる蝉(等躬) 夕食喰賤が外面に月出て(翁) 秋来にけりと布たぐる也(曽良) 一 廿八日 発足の手はず定まるが、矢内彦三郎来て(発足を)延引する。昼過より彼宅へ行き日暮れまで滞在。十念寺、諏訪明神ヘ参詣。朝の内、曇り。 ○延引の理由については、「俳諧書留」に次のように記されている。 須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝(乙字ケ滝)といふあるよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比(このごろ)の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといヽて止ければ、 さみだれは滝降りうづむみかさ哉 翁 案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。薬師(医師)也。 一 廿九日 快晴。午前10時頃、須賀川・相楽等躬宅を発足。石河滝(乙字ケ滝)を見に行く。(この間、笹川という宿より安積郡に入る)。須賀川より南東の方一里半ばかりのところに有る。滝より十余丁下を渡り、上へ登る。徒歩なら滝の上を渡れば余程近い由。阿武隈川也。川幅百二、三十間も有る。滝は、川を斜めに切って落ち、幅はニ百五、六十間もあるだろう。滝の高さは二丈、一丈五、六尺、所によっては一丈ほども有る。 |
| ◇一里:約4km ◇一丁(町):約109m ◇一間:約1.8m | |
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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第5集 芭 蕉 と 須 賀 川
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