| 多賀城の成立について |
![]() |
蘇我入鹿が国政を掌握していた645年の6月、後の天智天皇の中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺し、父蝦夷を自害に追い込み、馬子の代から三代にわたって権勢を誇った蘇我大臣家を滅ぼした。こうして中大兄皇子を中心とする革新勢力が実権を握り、政治改革「大化の改新」に着手した。 |
| 権はこれを改め、中央集権的な地方支配を目指した。 蘇我入鹿の暗殺から2ヶ月後の8月、新政府は、伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発(あらち)関の三関で東国と西国に分けて使者を遣わし、人口や土地、国造の支配状況、武器所有の実態などを調査した。この結果に基づいて地方支配機構の改革が推進される中、政府は地域ごとに境界を定め、大和政権以来の国造に変わるものとして評(こおり)を置き、地方の再編に着手した。 東北の太平洋側では、南は福島県南部の白河から北は宮城県南部の日理(亘理)、伊具にかけて評が置かれ、多賀城成立の礎となる「道奥国」(のち陸奥国)が設けられた。それ以北は政府の支配下から外れた蝦夷の地だったが、7世紀半ばになると支配領域の拡大が図られ、7世紀後半には宮城県北部の玉造や新田にまで及んだ。 天武天皇の時代に移ると、皇族中心の政治権力を背景にして律令制国家の建設が強力に進められ、大化の改新から半世紀ほど経過した701年に大宝律令が制定された。地方行政については、全国を畿内と七道(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)に分け、さらに国、郡、里に分けて役人を配置し、地方組織の強化を図った。 律令においては、北陸道の越後国、東山道の陸奥国、出羽国など東北地方の国に対して多くの特例が設けられ、その中には、「蝦夷の様子をうかがう」、「蝦夷を服従させる」、「蝦夷を討つ」といった国守の職務規定まであり、蝦夷対策が律令政府の大きな課題であったことが窺い知られる。 下記年表に、東北地方における郡の分割や新設、国の再編が度々行われたことが書かれるが、これはそうした蝦夷対策の一貫として行われたもので、律令制支配を徹底させることが狙いだった。霊亀元年(715年)になると、陸奥国の更なる充実経営のため、坂東6ヶ国から1000戸の住民移動が行われた。 こうした経緯の中、陸奥国支配の本拠地として多賀城が創建されるに至り、政府は、此処に、陸奥国府と蝦夷の反乱を鎮める鎮守府を設置し、陸奥出羽按察使・陸奥守および鎮守府将軍を兼任する国守を駐在させた。 |
| 和銅1 | 708 | 越後国に出羽郡を設ける。 まだ郡が置かれていないところには、まず柵を築いてその土地の蝦夷を服従させ、その後に郡を設けた。 |
| 和銅2 | 709 | 蝦夷の反乱。反乱を起こした越後国に「征越後蝦夷将軍」が、陸奥国の動揺を鎮めるために「陸奥鎮東将軍」が派遣される。 708年の出羽郡設置は、後年の出羽国建置を前提にした施策だったが、これに反発して越後国で反乱が起きた。 |
| 和銅5 | 712 | 越後国の出羽郡を出羽国とする。 陸奥国の最上・置賜両郡を出羽国に移す。 新たに置かれた出羽国には、2年後の和銅7年や霊亀2年に、尾張・信濃・上野・越前・越後などの国から移民政策がとられた。 |
| 和銅6 | 713 | 陸奥国に新たに丹取郡を設ける。 |
| 霊亀1 | 715 | 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の6国の富民千戸を陸奥国北部に移し、「黒川以北十郡」を設ける。 黒川以北十郡は、牡鹿、小田、新田、長岡、志太、玉造、富田、色麻、賀美、黒川の郡を指す。 |
| 養老2 | 718 | 陸奥国から、石城(いわき)・石背(いわせ)両国を分立。 石城国←[陸奥国]石城・標葉・行方・宇太・日理 [常陸国]菊田 石瀬国←[陸奥国]白河・石背・会津・安積・信夫 陸奥国北部に設けた黒川北十郡の経営に集中するためこの2国を陸奥国から分けるが、人と物資の供給に不便が生じた為、短期間で陸奥国に併合される。 |
| 養老4 | 720 | 蝦夷の反乱で、陸奥国に「持節征夷大将軍」が派遣される。 |
| 神亀1 | 724 | 陸奥国に多賀城を築く。 多賀城碑によれば、陸奥鎮守将軍従四位下大野朝臣東人が築いたとされる。 |
| 神亀2 | 725 | 陸奥国の、朝廷支配下に入った蝦夷(俘囚)144人を伊予国に、578人を筑紫に移す。 |
| 神亀5 | 728 | 陸奥国が新たに白河軍団を設け、丹取軍団を改めて玉作軍団とする。 ここでの「軍団」は、律令制による軍事・警察機構。中央の兵部省が管轄した。 |
| 近年の多賀城跡の発掘調査により、多賀城は奈良時代前半に創建されたことが明らかとなり、また木戸窯跡から見つかった「ヘラ書平瓦」の文字から、717年から740年にかけて創建されたことが明らかとなった。 これは、多賀城碑に見る創建年「此城神亀元年(724年)歳次甲子・・・之所置也」と符合するもので、こうしたことから、多賀城碑は、長く渦巻いてきた偽作説が打ち消され、また、多賀城の成立を明示できる唯一のものとして極めて重要な文化遺産と判断されて、平成10年(1998年)、国から重要文化財の指定を受けた。 |
| 西 将 節 也 軍 此 多 軍 度 天 従 城 賀 藤 使 平 四 神 城 原 従 宝 位 亀 去 去 去 去 去 恵 四 字 上 元 靺 下 常 蝦 京 美 位 六 勲 年 鞨 野 陸 夷 一 天 朝 上 年 四 歳 国 国 国 国 千 平 臣 仁 歳 等 次 界 界 界 界 五 宝 朝 部 次 大 甲 三 二 四 一 百 字 六 修 卿 寅 朝 按 里 七 十 廿 年 造 兼 参 臣 察 十 二 里 十 也 按 議 東 使 四 里 二 察 東 人 兼 里 月 使 海 之 鎮 一 鎮 東 所 守 日 守 山 置 将 |
![]() |
| 多賀城碑は、多賀城の修造に関する文献としても唯一のもので、天平宝字6年(762年)に、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣朝 |
| 宝亀5 | 774 | 陸奥国で蝦夷反乱。 桃生城が侵略される。 |
| 宝亀7 | 776 | 出羽国で志波の蝦夷反乱。 陸奥国で胆沢の蝦夷反乱。 |
| 宝亀11 | 780 | (3月)陸奥国で伊治公呰麻呂の乱が起こる。 この乱で、蝦夷出身の伊治公呰麻呂が按察使参議紀朝臣広純を殺し、大伴真綱を追って多賀城を焼いた。発掘調査によって、この時の火災が広範囲にわたり、政庁地区では正殿はじめほとんどの建物が罹災していることがわかっている。 (7月)藤原継縄を征東大使とした征討軍、不調。 (9月)藤原小黒麻呂を征東大使とした征討軍、不調。 |
| 延暦2 | 783 | 持節征東将軍に大伴家持が任ぜられる。 「持節」とは、天皇から刀(節刀)を与えられ長官職に就いた場合をいい、天皇の権限が代行されたことを意味する。 |
| 延暦8 | 789 | 大墓阿テ流為(あてるい)率いる胆沢の蝦夷、征討軍を破る。 紀古佐美を征東将軍として衣川まで進出したが、陸奥国の胆沢の蝦夷に衣川で大敗する。胆沢で戦いは延暦5年から4年間続いた。 |
| 延暦9〜 14 |
790〜 795 |
胆沢と志波の蝦夷と戦い続く。 征夷大使大伴弟麻呂と副将軍坂上田村麻呂が派遣される。討伐軍は10万の規模。 |
| 延暦15 | 796 | 坂上田村麻呂、陸奥出羽按察使陸奥守兼鎮守将軍の三官を兼任。 陸奥と出羽における行政・軍事を完全に委ねられる。 |
| 延暦20 | 801 | 坂上田村麻呂、蝦夷を討伐。 田村麻呂に節刀が与えられる。 |
| 延暦21 | 802 | 胆沢の蝦夷を平定し、胆沢城を造る。 胆沢城が造営されると、多賀城に置かれていた鎮守府が胆沢城に移った。鎮守府が多賀城にあったとき、その役職は陸奥出羽按察使・陸奥守と兼任させる必要から高い官位を保持していたが、鎮守府が胆沢城に移り、鎮守将軍が単独に任命されるようになると、官位を一段下げ、時には陸奥介(次官)を兼任させることもあった。胆沢に移った鎮守府は、国府より若干下位の位置づけながら、独自性を徐々に強め、国府と地域を分担するような形で胆沢の地を支配したと考えられる。 |
| 延暦24 | 805 | 桓武天皇、征夷の中止を決定。 長く続いた戦乱により、国家の財政的な問題、東国・東北地方の人々の疲弊などが生じ、征夷の中止が決定された。 |
| 弘仁2 | 811 | 嵯峨天皇のころ、文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられる。 尓薩体(にさて)・閉伊(へい)地方を平定した。 |
| 8世紀後半になり、動乱が鎮静化し陸奥国の北部まで律令制の支配が及ぶようになったころ、政府は、延暦21年(802年)胆沢城造営のため坂上田村麻呂を胆沢の地に派遣した。完成後、多賀城にあった鎮守府は胆沢城に移されることとなり、以後、多賀城は陸奥国府として存立していく。 |
![]()
【参考文献】
多賀城市史1 原始・古代・中世
宮城県の歴史 (山川出版社)
![]()
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第13集 芭 蕉 と 多 賀 城
スタートページ
Copyright(C) 2000-2004
LAP Edc. SOFT. All Rights Reserved.
Maintained online by webmaster@bashouan.com