「おくのほそ道」への旅立ち
 
仙台堀川
         採荼庵跡の脇を流れる仙台堀川

芭蕉は、「おくのほそ道」の旅を控えた元禄2年(1689年)の2月(旧暦)末、友人や門人、近隣の人々の寄付金で築かれた第二次芭蕉庵を手放し、旅立ちまでの1ヶ月ほどを仙台堀のほとりにあった杉山杉風の別墅採荼庵で過ごした。

芭蕉庵を手放したことについては、昔、長期間の旅に出るときは家の方角を調べ、差し障りがある場合は一旦別の所に住まいを移してから旅立つことがあったので、芭蕉もこれに習った

とか、旅銀調達のためとかいわれるが、いずれにしても命を落とすことさえ覚悟した長旅であったことに違いなく、一説にいわれるように、二度と戻らない決意の現れだった可能性は十分にあるだろう。

「おくのほそ道」の旅は、五百年忌を迎えていた西行をはじめとする古の歌人の足跡を訪ねる旅でもあり、また、31歳にして露と消えた悲運の将・源義経を追慕する旅でもあった。いよいよ旅立ちの日を迎えようとすると、宵から友人や門人が別れを惜しんで採荼庵を訪れ、出立当日は、仙台堀に浮かぶ船に芭蕉とともに多数が乗り込んで隅田川をさかのぼった。芭蕉はこの時の様子を次のように「おくのほそ道」に記している。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の嶺幽にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。
(三月も末の二十七日、あけぼのの空がおぼろに霞み、月は有明けの月でうすく照らしているので富士山の嶺がかすかに見わたすことができる。上野や谷中の桜の梢はいつまた見られるかと心細い思いにかられる。私を思ってくれている弟子たちはみな昨夜から集まり、一緒に船に乗りこんでくれた。) (おくのほそ道)


「仙台堀」は、河口の「上之橋」の北詰に仙台藩の蔵屋敷が置かれていたことに因む名称で、永代六間堀の1つに数えられ、寛永年間には材木置き場として使用されていた。昭和40年(1965年)、河川法改正で、砂町運河と合わされて「仙台堀川」の名に改まった。

川端の採荼庵跡には、旅装束に身を包んだ芭蕉の像が置かれ、傍らに、「(前略)芭蕉はしばしばこの庵に遊び、『白露もこぼさぬ萩のうねりかな』の句を詠んだことがあり、元禄2年奥の細道の旅はこの採荼庵から出立した」を表記する標柱が見られる。

芭蕉一行が千住に向けて乗り込んだ船は、隅田川に入って右に舳先をかえ、思い出深い深川の地をあとにしたが、当時、仙台堀河口から千住に至るまでの間、隅田川に架けられていた橋は、両国橋と千住大橋だけだった。

仙台堀川河口・千住
大橋間で見られる橋

架橋地

当時の架橋状況
(有り=○/なし=×)と竣工年
謂れなど

清 洲 橋

中央区
江東区
× 昭和3年(1928年) 西ドイツのケルン大橋を手本にしてつくられた。

蔵 前 橋

台東区
墨田区
× 昭和2年(1927年) 幕府の御蔵があったことから命名。

厩  橋

台東区
墨田区
× 明治7年(1874年) 幕府の厩舎があったことから命名。当時は渡し船。

新 大 橋

中央区
江東区
× 元禄6年(1693年) ロープで吊られた現在の橋は昭和53年に完成。

両 国 橋

中央区
墨田区
万治2年(1659年) 武蔵国と下総国と結んだのでこの名がついた。
駒 形 橋 台東区
墨田区
× 昭和2年(1927年) 橋の近くの駒形堂が由来。3連アーチの橋。
吾 妻 橋 台東区
墨田区
× 安永3年(1774年) 安永3年にはじめて木橋が架けられた。
言 問 橋 台東区
墨田区
× 昭和3年(1928年) 業平の「名にし負はばいざ言問はん・・・」から命名。
桜  橋 台東区
墨田区
× 昭和60年(1985年) 墨田川に架けられた中で唯一の歩行者専用橋。
白 髭 橋 台東区
墨田区
× 大正2年(1913年) 橋近くの白髭神社から命名。
千住大橋 荒川区
足立区
文禄3年(1594年) 現在の橋は昭和47年に完成。

一行が上陸した千住大橋の北のたもと付近は、今、区立公園に整備され、園内に、「おくのほそ道」の旅の行程図や、旅立ちの章段の抜粋を刻む「矢立初の碑」が見られる。石碑は、昭和49年(1974年)に建てられたもので、碑陰に下の説明文が記されている。
千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
  行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

(千住というところで船をあがれば、前途はるかな道のりの一歩を踏み出したことに胸がいっぱいになり、この世は夢、幻とは思いつつも、道に立つと切ない別れで涙がとめどなく流れた。
厳寒の冬は身にこたえ、それだけにうららかで花咲きそろう春は格別である。その春が行ってしまうのだから、鳥までもわびしさで泣いているように聞こえ、魚も目に涙を光らせているように思われるものだ。
これを、旅の句の初めとして足を踏み出すが、名残りが尽きず、なかなか先に進まない。別れに来てくれた人々は道に立ち並んで、姿が見えなくなるまで見送ってくれるのだろう。 )

(おくのほそ道)

江戸時代の俳人、松尾芭蕉の著わした俳文紀行「おくのほそ道」は、日本の古典文学として内外に親しまれている。同書によれば、深川を舟で出発した芭蕉は、旧暦元禄二年(一六八九)三月二十七日、千住に上陸し旅立っていった。千住の河岸には古くから船着場があり、このあたりが上り場であった。千住は、寛永二年(一六二五)、三代将軍家光のとき、日光道中の初宿に指定され、日光・奥州・水戸の各道中の宿駅としてにぎわった。 昭和四十九年十月十二日 東京都足立区
(矢立初の碑)


芭蕉一行が、「むつましきかぎり」の人々に見送られながら歩み始めた日光街道は、今も、5間(約9m)の道幅を変えぬまま荒川の土手まで2km近く一直線に伸びており、当日の「後かげのみゆる迄」見送り、そして見送られた光景を彷彿とさせる。

日光街道など3街道の一番手に控えた千住宿は、今や、繁華な商店街に変貌し、隙間なく商店やビルが立ち並ぶ光景を呈しているが、旧街道の端に点在している、本陣、一里塚、問屋場の跡碑などが、わずかに往時の宿場風情を香らせている。


 
  
俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次


第15集 芭 蕉 と 旅 立 ち
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