| 第一次芭蕉庵から第三芭蕉庵まで | ||||||
| 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース |
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_ | 1.入庵前の芭蕉の動向 芭蕉が、後に江戸で出版されることになる「貝おほひ」の原稿を携えて伊賀上野を立ったのは、寛文12年(1672年)29歳のときであった。江戸到着後、最初に足をとどめたところについては、日本橋本舟町の名主卜尺方、小田原町の杉山杉風方などの説がある。卜尺は、芭蕉が京都の北村季吟に学んでいるときに出会った同門の俳友であり、杉風は、日本橋で「鯉屋」という名の幕府御用の魚問屋を営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた門弟である。 |
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_ | 2.第一次芭蕉庵 しかし、この年の冬、芭蕉は突如として宗匠生活を捨て、江戸市中から深川の草庵に転居した。なぜ芭蕉が隠棲の道を選択したかについては、同年冬の「しばの戸」から、内なるものが垣間見られる。それは、名誉欲や利欲の渦巻く俗世間からのがれ、深川、草庵、隅田川といったシチュエーションの中に自らを誘い、清貧を礎にした漢詩文中の世界を自己の現実生活で体現しようとした芭蕉の心中である。 |
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_ | 3.第二次芭蕉庵 住まいを失った芭蕉は、支援者の杉風も罹災したことから窮地に陥ったが、天和3年(1683年)夏、秋元藩家老・高山伝右衛門繁文(麋塒)の招きで甲斐の谷村に移り、5月まで逗留した。同年6月、其角編「虚栗」に「栗と呼ぶ一書、其味四あり。」ではじまる跋文「芭蕉洞桃青鼓舞書」を書き与え、当時の俳諧観を吐露している。 |
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_ | 4.第三次芭蕉庵 元禄2年(1689年)8月21日に「おくのほそ道」の旅を大垣で終えた後、芭蕉は伊賀上野や膳所、京都など上方を漂泊。その間、義仲寺に逗留していた芭蕉のもとに、杉風から、第二次芭蕉庵の再入手を試みたが資金繰りに難渋し、実現できなかった旨の書簡が届けられた。 |
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5.第三次芭蕉庵のその後 江東区史によれば、芭蕉が元禄7年(1694年)10月12日に旅先の大阪で没した後、第三次芭蕉庵は杉風らによって保護されていたが、元禄10年(1697年)に、芭蕉庵のあった元番所から六間堀にかけての一帯が、飯山藩松平忠喬の屋敷に取り込まれ、その後、芭蕉庵の周辺は松平遠江守の屋敷となった。芭蕉庵は、屋敷内に旧蹟として保存されたが、幕末から明治にかけて消失したという。 |
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