| 草加宿について |
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徳川家康は慶長6年(1601年)から全国的に街道の整備を行ったが、当時、奥州街道の千住〜越ケ谷間は、沼地が多いため遠回りを強いられ、花俣から八条(八潮市)に出て、古利根川と元荒川の自然堤防伝いに越ケ谷に出るという迂回ルートだった。 慶長11年(1606年)になって、宿篠葉村(松江町)の大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、瀬崎から谷古宇にかけての低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、草原を開いて、千住〜越ケ谷間をほぼ一直線に結ぶ新往還道を築き上げた。このときの新道の築き方が「草加」という地名の由来とも言われる。 |
草加宿の位置は、南は草加市役所の前に建つ地蔵堂付近から、北は神明一丁目の草加六丁目橋付近までと考えられており、昭和12年に開通した県道足立・越谷線の西を「箪笥の取っ手状の道」が走っているが、この道こそが草加宿の核となり、芭蕉と曽良が歩を進めた旧日光街道である。 |
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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第16集 芭 蕉 と 草 加
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