| 日光から矢板までの芭蕉の足跡 |
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元禄2年(1689年)4月1日(新暦5月19日)日光山の参詣を終えた芭蕉と曽良は、翌4月2日、裏見の滝と含満が淵を見物し、昼過ぎ日光を後にした。 |
![]() 筋違橋 |
![]() 志渡渕川 |
なぜ通常経路を外れたか 筋違橋から大渡までの道程を計測すると、推定経路、通常経路ともに13km前後で、芭蕉は、特別に近道を歩いたということではない。それなら、どういう事情で五左衛門が通常経路から外れた道を勧めたのだろうか。土地の人によると、「当時轟で賊が出たからという話もある」とのことだったが、言い伝えはさておき、当時の日光山に関わる幕府の動向を把握しておきたい。 【参考文献】 「日光市史・中巻」 昭和54年12月20日発行 大渡から矢板までの足跡 |
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1.大渡[大渡橋] -日光市大渡- 元禄2年(1689年)4月2日 |
| 日光から瀬尾、川室と歩んだ芭蕉と曽良は、日光北街道の宿場町として栄えた大渡に到着した。日光を貫いて流れた大谷川は、この大渡で鬼怒川に合流する。 鬼怒川には、この大渡橋などからアユが放流され、解禁日を迎えると多くの太公望で賑わいをみせる。 |
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2.船生(ふにゅう) -塩谷郡塩谷町船生- 同2日 |
| 大渡橋を越えると日光北街道は塩谷町の船生に入る。街道沿いに、旧家を思わせる古い門構えの家が見られた。 塩谷町には、昭和60年(1985年)環境庁の「日本名水百選」に選ばれた「尚仁沢湧水」がある。 |
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3.玉生[「芭蕉一宿の跡」碑] -塩谷郡塩谷町玉生- 同2日 |
| 曽良随行日記の元禄2年(1689年)4月2日の条に、「午後1時半頃からかなり強い雷雨が降り、しばらくして玉生へ着いた。その日の晩、玉生に泊る。泊ろうとした宿が悪かったので、無理に名主に頼んで宿を借りた。」とある。 芭蕉が玉生で止宿したのは名主(庄屋)玉生氏の屋敷だった。現在この屋敷跡に「芭蕉一宿の跡」と彫られた石碑が建っている。名主の屋敷跡は後に、その子孫によって土地の尾形栄三郎氏に譲られ診療所が開かれた。先年、尾形医院は近隣に移転したが、旧医院の庭先に「おくのほそ道」と曽良随行日記の抜粋や謂れを刻する「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」の碑が残されている。 ○「奥の細道 芭蕉翁の遺跡」碑 |
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4.矢板[東北本線 矢板駅] -矢板市- 同3日 |
| 芭蕉は、元禄2年(1689年)4月3日、午前7時半ごろ玉生の宿を立って矢板へ向かい、矢板から、沢村、大田原を経て、同日、黒羽に到着した。 ○大田原、黒羽→「芭蕉と那須野が原」。 |
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俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡
総合目次
第18集 芭 蕉 と 日 光
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