源義経物語
 
「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」関連 特別企画    編著:LAP Edc. SOFT文芸班
   

源義経像は平泉町の「夢館」で撮影したものです

義経の父・源義朝

源義朝は、清和源氏の祖である経基六代の孫為義の長子として生まれた。

義朝は、1156年保元の乱で平清盛とともに後白河天皇方について父の軍を主力とする崇徳上皇方を破り、その三年余後、藤原信頼と平治の乱を起こすが、平清盛のために破れ、東国に逃れる途中、尾張で譜代の家来に謀殺された。

  
牛若、誕生す

源義経は平治元年(1159年)、源義朝と常盤との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第三子として誕生し、牛若と名付けられた。

平治の乱の後、平清盛は成長した後の報復を恐れ、常盤の子三人を殺すことを家来に命じた。これを知った常盤は、三人の子どもを連れて大和の国(奈良県)の宇陀に逃れ、外戚を頼って身を隠そうとするが、縁者は身にふりかかる災いを恐れ断った。


そこで同国の東大寺に隠れ住むこととなったが、常盤は母・関屋が平氏に捕まっていることを知り、「母の命を助けんとすれば、三人の子どもを斬るべし、子どもを助けんとすれば、老いたる母を失ふべし。子に母をばいかゞ思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとならば、子どもの為にもなりなん」と悩んだあげく、悲しみに沈みながら京都に引き返した。


清盛に助けを懇願すると、美人の誉れ高い常盤に心をうつし、常盤が清盛に付き従うことを条件として母・関屋と三人の子どもを赦免した。こうして今若と乙若は寺に預けられ、牛若は、四歳をすぎた頃に京都の山科に移り、七歳になったところで常盤により鞍馬山の別当東光坊に預けられた。


牛若は読書をよくし、仏教や儒教を学ぶなど、学問に明け暮れる毎日を過ごしたが、東光坊は、延暦寺や三井寺にもこのような熱心な童がいるものかと感じ入った。

水色で表した「義経記」引用文のすべてに現代語訳参照の為のハイパーリンクが張られています。

     

牛若、武芸を磨く

ある夜、鞍馬山に身を置く牛若のもとに正門坊と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将義朝の子であること、牛若の兄源頼朝が今伊豆の国に流されていること、さらには、源氏代々の武功勇武などを熟々(つらつら)と語った。

己の素性を知った牛若は、この日を境に平家討伐を一途に思い、「謀叛をおこす程ならば、はやわざをせでは叶ふまじ」と念じ、いよいよ武芸に身をやつすこととなった。時に、牛若十六歳の頃であった。


夜になると、牛若は密かに寺を抜けて山奥の僧正ヶ谷に出向き、貴船神社に「源氏を守らせ給へ。宿願まこと成就あらば、玉の御寶殿をつくり千町の所領を寄進し奉らん」と祈願した。そして、どこからともなく喚(おめ)き現れる物怪(もののけ)を相手に、飛んで、跳ねて、黄金の太刀を縦横無尽に振りかざし腕を磨いた。牛若は、こうして神業とも思える武芸を身に付けることとなった。


ある夜のこと、東光坊が、夜な夜な寺を抜け出る牛若に不審を抱き後をつけさせると、神社境内には、四方の草木を平家一族、一本の大木を「清盛」と名付けて散々に切り、やおら懐から取り出したぎっちょうの玉二つを清盛、重盛(清盛の長男)の首と見立てて木に吊すという、正に鬼気迫る牛若の姿があった。


これを知った東光坊は大いに驚き「牛若殿の御ぐしそり奉れ」と言って出家させようとしたが、労しく感じて思いをとどめた。これを契機に名を「遮那王」に改めることとなり、言い付け通り僧正ヶ谷へ行くのを止めたが、遮那王は鞍馬寺の本尊のもとに日参し、密かに平氏討伐を祈願していた。

  

義経、奥州へ下る

そんな折、吉次信高と名乗る者が遮那王のうわさを聞き面会に訪れた。吉次は、金買い付けのために奥州と京を往き来する著名な黄金商人で、商売がら奥州藤原氏と親交が深かった。

吉次は、藤原秀衡が鞍馬山に預けられた義朝の子に会いたがっていることや、源平の戦いがあれば秀衡所有の十八万騎が源氏に味方することなどを語り、奥州に思いを向かせた。


遮那王は「祈願が通じた、この時こそ」と意を決し誘いに応じた。「いつの頃下り候はんずるぞ」との問いに、吉次は即座に「明日吉日にて候」と答え、遮那王の奥州下りはその日の内に本決まりとなった。


寺に帰り人知れず旅支度をしながら、七歳の春から今日までのことが一挙に思い出され、いくすじもの涙で頬が濡れた。傍らの横笛に手をのばし息を通すと、霧に靄(もや)る鞍馬山に穏やかな音色が響き渡った。遮那王は、笛の音を形見に遺し、鞍馬山を下って行った。


遮那王は、正門坊に「御辺は都に留って、平家の成り行くさまを見て知らせよ」と命じ、吉次が率いる商隊に紛れるようにして京を離れたが、奥州の白河の関から藤原秀衡の領地に足を踏み入れるまでは、平氏が廻らす監視網の為に油断のならない旅が続いた。


途中、縁者のいる熱田神宮に立ち寄ることとなった。熱田神宮の前の大宮司は、義朝の正室由良御前の父であり、由良御前は伊豆に流されている頼朝の母である。遮那王は、秀衡に会う前に是非元服を済ませたいとの念願により、縁者や吉次が見守る中でこれを執り行い、名を源九郎義経と改めた。


長旅の末平泉に着くと、秀衡は、数日前屋形に黄金のが舞い込む夢を見たといい、あれは良いことの前触れだったと語って義経一行を歓迎した。

こちらから源義経ゆかりの地「平泉」のムービーがご覧いただけます。
芭蕉が見た奥の記念物「中尊寺金色堂」

   
源氏の旗揚げ

義経が平泉で十九歳の春を迎えたころ、後白河法皇をはじめとする貴族や武士の間に、政治を我が物にする平氏一門への反感が深まっていた。

平氏打倒の動きは、まず治承元年(1177年)6月鹿ヶ谷の陰謀」となって表面化する。これは、平氏の専制政治に反感をもつ俊寛らが清盛打倒を画策したものだったが、仲間の裏切りよって失敗に終わっている。


三年後の治承4年(1180年)4月になって、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)が、地方に散らばる源氏に平氏討伐の令旨を送ったが、清盛に気付かれ、以仁王は本懐を遂げることなく平氏に討たれた。


が、以仁王によってあげられた平氏討伐ののろしは伊豆に流されていた源頼朝のもとにも届き、頼朝にとってはこれが満を持しての旗揚げの契機となった。


頼朝の率いる軍はわずかで劣勢を余儀なくされたが、中央の平氏に不満を持つ武士がつぎつぎと頼朝の軍勢に加わり、頼朝は、これを機にたちまち上総、武蔵、相模を攻め、一挙に京に攻め上る勢いを見せた。


こうした源氏の奮闘ぶりは奥州平泉にも聞こえ、義経は「兵衛佐殿こそ謀叛を起して、八ヶ国を従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心ぐるしく候へば、追ひつき奉りて」と、ここぞとばかり三百余騎の兵を引き連れて兄頼朝のもとに向かった。軍勢の中に、武蔵坊弁慶や伊勢三郎義盛、佐藤継信・忠信兄弟などの姿があった。


義経軍は「馬の腹筋馳せ切り、脛砕くるをも知らず」駆けつづけ、武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の板橋に着いたときは八十騎ばかりになっていた。その後、頼朝の陣地探しに苦労し、ようやく駿河国(静岡県)の黄瀬川で頼朝軍に合流した。


はるばる奥州から駆けつけた義経に面会し、頼朝は、二歳で別れた弟が逞しく成長していることに感激するとともに、込み上げる懐かしさで涙があふれた。「義経記」には、兄弟の対面の様子が「共に涙にむせび給ふ。互に心のゆく程泣きて・・・」と記されている。

 

清盛の最期

このころ京では、衰えを見せはじめた清盛に追い討ちをかけるように、源氏ゆかりの武士が次々に反旗を翻し兵を挙げていた。これを反平家の僧兵の後押しと判断した清盛は、治承4年(1180年)12月、四万の軍勢で大津の園城寺(三井寺)や奈良の東大寺、興福寺を焼き払い弾圧した。

娘を天皇の皇后とし、その子安徳天皇を位につけ皇室の外戚として勢力を張った清盛ではあったが、翌年養和元年(1181年)2月、熱病に倒れ、六十四歳で命を落とした。


清盛の死については、東大寺や興福寺を焼き払い、多くの僧や稚児を焼死させた罰だというささやきが洛中で聞かれた。

 

木曽義仲を討つ

頼朝が京攻めを先に見送り、黄瀬川の陣から鎌倉に引き上げたころ、木曽義仲こと源義仲は、越後など北陸を一気におさえ、京に一番乗りで攻め入った。これにより平氏一門は、京に火をつけ西へ逃れることとなった。

義仲軍勢が京入りした寿永2年(1183年)7月は、前々年(養和元年)の大凶作で多くの餓死者が出ていた頃で、そこへもって六万の兵が入ったことから食料不足に更に拍車がかかり、これに兵士の食料略奪などが加わり、市中は大恐慌状態となった。


平氏一門により穏やかな生活を剥奪されていた人々は、当初、義仲軍勢の都入りを歓喜して迎え、まさに日昇る勢いを見せた義仲を「旭将軍」と称えたのだったが、「これでは平家の方がまだまし」と落胆し、激した。


頼朝は寿永3年(1184年)1月、義経に二万五千騎を、その兄範頼に三万五千騎の兵をそれぞれ与え、義仲討伐のため京に向かわせた。


義経が宇治から攻め上ると義仲の軍は敢え無く散り失せ、北に逃れようとした大将義仲は、三十一歳で近江(滋賀県)の粟津で討たれ死んだ。

  

一ノ谷の合戦

九州へ逃げていた平氏は、四国へ進出して屋島に行宮を建て、南海や山陽を支配下におさめて勢いを取り戻し、京に攻め上る気配を示していた。

寿永3年(1184年)1月、義仲を討ち取って更に意気を高める義経と範頼に、いよいよ平家討伐の命が下された。


義経と範頼は、西と東に別れ、福原(神戸市)に陣をとっている平氏を一ノ谷から挟み討ちにすることを画した。2月、西に回った義経は摂津の藍那から鵯(ひよどり)越えをして一ノ谷の裏山に辿り着いた。このとき、崖下に陣を構える平氏は人の動きがなく寝静まっていた。


義経は、一ノ谷を崖上と崖下から攻めようと自軍を二手に分け、土肥実平の軍勢を播磨の明石から一ノ谷に向かわせた。


東の空が白みかけたそのとき、夜明けを待って攻撃を開始した範頼軍の勇ましい鬨(とき)の声が、東・生田の森の方から聞こえてきた。それに合わせ、義経の軍勢も馬ごと崖を駆け下りて平氏の陣に攻め入った。


不意をつかれた平氏は、広がる火の手から追い立てられるように海になだれ込み、船で瀬戸内海を渡り、屋島に逃げ入った。


「義経記」には、義経に好意を抱かぬ梶原景時でさえ、義経の戦時の活躍ぶりを次のように称えたとある。
一度もなれぬ船戦にも、風波の難をおそれず、船端を馳せ給ふ事、鳥の如し。一の谷の合戦にも、城は無双の城なり、平家は十万余騎なり、味方は六万五千余騎なり。城は無勢にて、寄せ手は多勢こそ、軍の勝負決し候ふに、城は多勢案内者、寄せ手は不案内の者どもなり。たやすく落つるべしとも見え候はざりしを、鵯越えとて、鳥獣も通ひがたき巖石を、無勢にて落し、平家をつひに追ひ落し給ふ事は凡夫のわざならず


かくして宇治川に続き一ノ谷でも大功をたてた若き武将・義経は一躍時の人となったが、頼朝は、労苦をねぎらって範頼を鎌倉に戻したのに対し、義経については代官の職に就けて京に取り残し、範頼を三河守に取り立てておきながら、義経の戦功は認めようとしなかった。


いっぽう京では義経の功を称える声が高く、寿永3年(1184年)8月、後白河法皇は義経を検非違使の判官に任じたが、頼朝は、これについても自分に断りなく職に就いたとして義経を激怒した。

   
屋島の合戦

寿永3年(1184年)9月、頼朝は、義経に頼らず、範頼を総大将として屋島の平氏を討たせようとしたが成功せず、逆に平氏側が勢いを取り戻していた。

頼朝は出番を待つ義経になかなか出陣の機会を与えなかったが、一向に戦績をあげることができない範頼に業を煮やし、翌年の文治元年(1185年)1月ようやく義経に出陣の命を下した。


義経軍勢は2月屋島に向けて京都を出立した。摂津の渡辺(大阪市北区南部・中央区北部のあたり)で軍船を整え屋島に向かおうとする頃、船出を阻むほどの暴風雨となり航行は無理かと思われた。


しかし義経は船頭のしり込みを叱咤し、五隻の船に百五十騎を積め込んで嵐の中を漕ぎ出した。


風に押され、予定より早く屋島に着いたと思われたが、そこは阿波の国(徳島県)の勝浦であった。然して、義経の軍勢は勝浦から鞭をふりふり昼夜にわたって馬を走らせ、翌朝早々、屋島対岸の一村に到着した。


村から見る屋島には平氏の赤色の旗がにぎやかに並び、かなりの数の軍船が岸につながれていた。


自軍がわずか五十騎ばかりとなり形勢不利と判断した義経はすぐに攻め入らず、周辺の村々に火を放って源氏の白旗を翻し、相当数の兵が集結しているかの如くに見せかけた。


仰天した平氏は、「一ノ谷」を再現するように、喚声をあげながら船めがけて疾走した。義経軍は高々と水飛沫をあげながら干潟を駆け抜け、屋島の平氏の陣に火を放った。


ややあって義経軍が小勢であることに気付いた平氏は、船を漕ぎ戻し弓矢を手にした。


平氏一番の弓の名手能登守教経も帆先を変えて引き返し、義経めがけて矢を放ちに放った。そのうちの一本が義経に当たるかと思ったその時、佐藤継信が馬を進め、義経の前に立ちはだかった。矢は継信の鎧を射貫いた。義経は馬からさっと飛び降り継信を抱き上げた。継信は事切れそうな息でわずかを語り、首を深く垂れた。


戦はなおも続いたが、平氏はついに屋島を見放して更に西へ逃れ、合戦は終結した。

  

壇ノ浦の合戦

平氏の逃れた先は関門海峡近くの小さな島・彦島であった。彦島の先は玄界灘、陸には範頼の軍勢が待ち構えている。逃げ場を失った平氏はここでの合戦に最後の望みをつないだ。

文治元年(1185年)3月、海戦に臨み源氏方は八百四十隻、平氏方は五百隻余りを集結させた。


源氏方の先鋒船三百五十隻が瀬戸内海を西に下ると、平氏方もこれに応じて漕ぎ進み、壇ノ浦の合戦の火蓋が切られた。


はじめ、平氏方は潮が東に流れるのを待ってうまく源氏方の船に近づき、おのおのの船首に弓矢を構えて射ちまくり源氏を圧倒していた。源氏方にとって態勢を立て直すためには潮流を逆に進まなければならず劣勢を余儀なくされた。


源氏方に焦りが見えはじめたが、義経のとっさの妙案で形勢が逆転した。肝心要(かんじんかなめ)の船頭を弓矢で射殺すという絶妙の軍略であった。


果たせるかな船頭を失った平氏の船は動きを失って彷徨し、源氏方はここぞとばかり平氏の船に乗り込み、つぎつぎと斬りかかっていった。


もはやこれまでと、中納言知盛が壇ノ浦の海に身を投げると、まだ八歳の安徳天皇も、祖母の二位尼に抱かれて海に沈んだ。


ある者は同じように身を沈め、斬られ、弓矢に倒れ、あるいは海から救われるなど、海上の景はまさに戦の終わりを告げていた。こうして源平の長き戦いは終結した。

  

悲しき褒美

義経は、数々の手柄をたて鎌倉に凱旋しようとしていたが、鎌倉に近い腰越まで来ると、頼朝の使者によって当地から先への立ち入りを阻まれた。こうして、ひと月ほど腰越に足止めを食らい、結局、鎌倉には一歩も足を踏み入れることなく京に帰らざるを得なかった。

「義経記」には、この時の義経の心情が次のように記されている。
莫大の勲功をもだせられ、義経犯す事なうして咎を蒙り、功有りてあやまりなしといへども、御勘気蒙るの間、空しく紅涙に沈む


帰京後も頼朝からの沙汰はなく、送られたものは謀反という廉(かど)で義経を斬ろうとする、あやしき軍団であった。


頼朝が放った刺客・土佐房昌俊らは隙をうかがい義経を討とうとしたが、義経家来の働きにより失敗し、六條河原で斬られた。


頼朝はこれを許さず、北条四郎時政を大将軍にして千騎の軍勢を京に送り込んできた。


義経のめざましい戦歴に恐れおののいたか、平氏残党の娘を妻に迎えるなどの大胆不敵なふるまいに激したかは知らず、数々の戦功を立てながらも、頼朝が義経に与えた褒美は、実に悲しいものであった。

   
吉野山に落つ

このまま京にいることに危険を感じた義経は、西国支配の宣旨が下されるのを待って、西方を目指すことにした。

文治元年(1185年)11月3日、総勢一万五千騎のうち、義経や叔父の備前守・源行家、狩装束に身を包んだ静御前など一行五百人は月丸と号する大船で海路を行き、残りは陸路で都落ちをした。


「義経記」に、この折の思いが次のように記されている。
荒磯かけて漕ぐ時は、渚々になく千鳥、折りし顔にぞ聞えける。霞へだてゝ漕ぐ時は、沖に鴎のなく声も敵のときのこゑかと思ひける


しかしながら、嵐のため船を思いの通りに進められず、漕ぎ出した摂津(兵庫県)の浜に押し戻される始末であった。こうして、待ち構えていた頼朝の軍勢と戦うこととなったが、嵐で軍備や兵に痛手を受けながらも家来の活躍を得て勝利に持ち込んだ。


これにより、頼朝の追跡の手が更に厳しくなることが予想されたため、義経は家来の行く末を案じ多くをゆかりの地へ帰還させ、自身は、静や弁慶・佐藤忠信らわずかな手勢とともに吉野山を目指すこととなった。


このとき「都に春は来れども、吉野はいまだ冬ごもる」季節で、吉野の谷川には氷さえ見えた。

 

静、あわれ

静を伴って吉野に着いてはみたものの、慣れない山越えの道中で疲れ果て、そのうえ義経の子をはらむ身であった。そこで、義経は静を京に返す決心をし、数人の家来をつけて山を下らせた。

義経は、別れ際に小鏡を静に手渡し、これを朝晩わたしと思ってながめるように言い聞かせると、静は涙に暮れならが、
見るとても嬉しくもなします鏡恋しき人のかげをとめねば
と詠み、吉野山を下って行った。


山を下る途中、静は、義経から貰った財宝を家来たちに持ち逃げされ途方に暮れているところ、山中で、頼朝の追っ手に捕らえられてしまった。静は、吉野から鎌倉に連れて行かれ男子を出産したが、生まれたばかりの赤ん坊は、頼朝の命により海に投げ落され、殺された。

悲しみに沈む十九歳の静は、髪を剃りお経を読んでわが子の成仏を願っていたが、次の年の秋に短い一生を終えた。

 

義経、吉野を下る

山中で静が捕らえられたことにより、義経が吉野に潜んでいることを察知した僧徒たちは、「九郎判官殿は、中院谷におはすなり。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿の見参に入らん」と意気込んだ。

その意は「義経が山に潜むことが頼朝に知れれば、追手がきて寺は焼き滅ぼされてしまう。義経が敵というわけではではないが、焼かれる前に義経を討ち取るほかに手はない」とする詮議だった。


僧徒が打ち鳴らす不気味な鐘の音を聞くと、弁慶は義経の制止を振りきり、様子を見に山麓まで下った。


大日堂から眺めると、僧徒達は南大門に集まり詮議をしているところで、総勢百人はいるだろうと思われた。冑の緒をしめ、弓、長刀(なぎなた)を手に攻め上がろうとしていた。


弁慶の報告を聞き、山の地理を知り尽くした僧徒相手では勝ち目がないと判断した義経は、吉野の山を離れることを決心した。


このとき佐藤忠信から申し入れがあり、忠信を含め七人の家来が僧徒を待ち伏せして戦い、義経らが無事に逃げ延びる手助けをすることになった。


義経一行は、屋島の合戦で散った継信を思い、そして弟・忠信との今生の別れを予感しつつ無言のまま吉野を下って行った。


忠信とともに残った中には、奥州から共に馳せ参じた五十人の内、わずかに生き残った五人の兵が含まれていた。


忠信は敵方きっての曲者・覚範を死闘の末に討ち取り、高々と首を翳(かざす)すと、僧兵たちは「覚範さへもかなはず、まして我等さこそあらんず、いざや麓に帰りて、後日の詮議にせん」と言って戦場から消えていった。


他の家来はすべて討ち死にし、忠信は一人京に戻るが、
文治2年(1186年)1月6日、六條堀川の判官館に潜むところを頼朝の軍勢に襲われ、壮絶な自刃を遂げている。この時忠信二十八歳であった。

 

奥州平泉に落つ

吉野を下った義経主従は、その後、頼朝方の目から逃れるため奈良や京都で散り散りに身を隠したが、このまま隠れ居を続けても事態を好転できる望みがなく、義経は奥州平泉へ逃げることを決意した。

頼朝が敷いた広く強固な包囲網のため、義経の逃避行に用意された地は藤原秀衡が統治する平泉を措いて他になかった。


家来たちは一人の心変わりもなく参集し、文治3年(1187年)2月山伏の出立(いでた)ちに身を包み北へ旅立った。山伏の連には、義経の奥方・北の方とその守役・兼房の姿も見られた。


一行は、手配られた追手方をどうにか振りきり苦心惨澹(さんたん)の末、平泉に到着した。このとき、主従を纏う山伏の装束は風雨に痛みぼろぼろになっていた。


秀衡は義経主従の平泉入りをおおいに歓迎し、義経を大将にいただき頼朝と一戦を交える覚悟があることを諷した。頼朝は、脅し文句を綴った書簡を送り付け平泉を牽制したが、秀衡は動じることなく義経をかくまい続けた。

 
秀衡臨終

しかし、ここで義経の運命を大きく揺さぶる事態が発生した。都落ちから1年も経たない文治3年(1187年)10月29日、義経を強力に支援する秀衡を病で亡くしてしまったのである。

義経は、秀衡の死という予期せぬ事態に絶望し、慟哭した。
境遥の道を凌ぎて、是まで下る事も、入道を頼みてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都におはすれ共、平家に渡らせ給へば、互に心よからず。兄弟ありといへ共、幼少より方々に有りて、寄り合ふこともなく、剰へ憐みを垂れ給ふべき頼朝には不和なり。いかなる親の歎き、子の別れというとも是には過ぎじ


そして義経は「たゞ義経が運のきはむる所」と深く歎き、「義経記」には肩を落とす義経の様子が「同じ道にと悲しみ給へども、空しき野辺にたゞひとり、送り捨てゝぞ帰り給ふ」と綴られている。


秀衡の死は、秀衡と頼朝との間に確執が生じていたことや、一族に秀衡ほどの統治能力をもった子弟がいないことなどから、奥州防衛上、最大の危機が迫っていることを意味した。


秀衡は、「伊予守義顕(=義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、男泰衡以下ニ遺言セシム」(「吾妻鏡」文治3年10月29日の条)と言い残し、また兄弟力合わせて難局を凌ぐように遺言して果てたが、その願いとは逆に義経の扱いをめぐって兄弟間にのっぴきならぬ対立が生じ、藤原一族の結束は一気に弱体化した。

 

義経危うし

秀衡に対しても、義経の処遇について院宣が下されるなどの圧迫があったが、死後の文治4年になると、俄然その動きがあわただしくなってくる。

文治4年(1188年)2月21日藤原基成と泰衡に義経追討の宣旨が、

26日には同内容の院宣が下され、


3月29日に宣旨・院宣伝達のため官吏が奥州に下り、


10月12日になると、基成と泰衡に、重ねて頼朝からの義経追討の命が伝えられ、これに応じなければ共に追討すると報知される。


11月、陸奥・出羽国司らに対し、基成と泰衡を督励し、義経を討伐させよとの院宣が下される。


明けて文治5年(1189年)2月22日、頼朝は、命に応じない泰衡の追討や、平泉方に同調する公卿たちの解官を朝廷に求めた。


25日、頼朝が、義経や泰衡の動向を窺うため、奥州に使者を遣わし、


3月22日になって、頼朝は、重ねて泰衡追討の裁可を朝廷に求めた。

 

高館の戦い

そしておよそ1ヶ月後の4月30日の朝、泰衡は、家来の長崎太郎を大将にして五百騎の軍勢で義経の居館高館に攻め込んできた。

兼房と喜三太は屋敷の上に駆けあがり、引き戸の格子を小楯にして弓矢を次々と射ち放った。


屋敷の大手門には、弁慶、片岡八郎、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟、鷲尾三郎、増尾十郎、伊勢の三郎、備前の平四郎の八人が立ちふさがった。


常陸坊など十一人は、朝から山寺参りに出向いてまだ帰っていなかった。


弁慶は、鎧をまとい大長刀(おおなぎなた)の真ん中を握って立ち構えると、
「囃し立ててくれ、殿原達。東の方の奴原にいいものをみせてやる。わしはこう見えても若い頃、比叡山で詩歌管絃を許されていた。一手舞って奴原に見せてやるわい」と言い、鈴木三郎、亀井六郎に囃させて踊り出した。
うれしや瀧の水
鳴るは瀧の水
日は照るとも絶えずとふたり
東の奴原が

鎧兜を首もろともに
衣川に切流しつるかな


寄せ手の一人は、「判官殿の御内には剛の者がおいでになる。寄せ手が五百騎で攻めているのに、城にはたった十騎ばかり。それでもああやって踊っているんだからなぁ」と呆れ顔で言った。


弁慶は舞を終えると、「東の方の奴原に、手並みの程を見せてくれようぞ」と言って長刀をふるい、鈴木三郎と亀井六郎の兄弟は太刀を冑の真っ向に構え、三人、をならべて敵方に攻め込んだ。


すると、さっと散って寄せ手が退いた。


鈴木三郎は、弓手(ゆんで)に二騎、馬手(めて)に三騎切り伏せ、七、八騎に手負わせたものの、自らも致命的な痛手を受け、弟に「亀井の六郎、犬死にするなよ」と言い残して自刃し果てた。


亀井六郎は、「奴原はわしの弓の力を未だ知るまい。初めて見せてくれようぞ」と言い残して弓矢を射ちまくり、三騎討ち取り、六騎に手を負わせたが切り込まれ自刃した。


備前の平四郎と増尾十郎も討ち死にし、絶えていた。


片岡八郎と鷲尾三郎は、一つになって戦っていたが、鷲尾は深く攻められて死に、そこへ入ってきた弁慶と伊勢の三郎と三人で敵陣深く攻め入った。


伊勢の三郎は深手を負って、「暇乞(いとまご)いをして死出の山で待っている」と言い遺し首を垂れた。


弁慶は、喉笛を打裂かれて全身を赤く染めながら、威風堂々の戦いを見せていた。


弁慶が持仏堂に入ると、義経は静かにお経を読んでいた。


弁慶が、「軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのまゝに仕り、打死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりに成りて候。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かゝり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はゞ、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はゞ、三途の河にて待ち参らせん」と言うと、


義経は、「今一入名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人の入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ」と続けて言った。


弁慶は、御座する所の御簾(みす)をそっと引き上げ、義経に別れを告げた。義経の目に、咽(むせ)び泣く弁慶の姿が映った。


敵の接近する音を近くに聞くと弁慶はあわてて立ち去ろうとしたが、すぐに戻って、
六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありとも
の歌を詠み、死後にふたたび会う約束を交わすと、


義経は、
後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで
と返歌して、慟哭した。


弁慶が戦に戻ると、片岡は、傷を負い精魂使い果たしたかのようにぐったりした。もう、腕も肩も限界だった。片岡は、もうこれまでと自らの手で刀を深く刺した。

 

弁慶、力尽きる

義経の手勢は、大手門に残る弁慶、屋根で弓を引く兼房と喜三太の三人のみとなっていた。

弁慶は、血に染まりながらも最後の力を絞って長刀を振るった。人馬の区別なく、狂ったように手当たり次第に長刀を切りつけ戦場に血の雨を降らせた。


黒羽、白羽、染羽など、弁慶が受けた矢は数知れず、前身が矢だらけになりながらも縦横無尽の動きを見せていた。


とそのとき、弁慶は、一度大きく長刀を振って敵を打ち払い、長刀を逆さまに突き立て、仁王立ちに成った。


弁慶の動きが止まった。


まさに仁王のようになり、一口笑ったかと思うと微動だにしなくなった。


寄り手は、気味悪がって近づかない。


寄り手の一人が言った。


「剛のものは、立ちながら死ぬ事があるというぞ。だれか行って確かめて来い」


が、誰も近づこうとしない。


その時、一人の武者が弁慶の身体に馬を当てた。


「弁慶が倒れた!」


長刀をしっかり握ったままで息まだあるかに見えたが、このとき、弁慶は既に昇天していた。


弁慶は、命が絶えようとしたとき義経の最後の言葉を思い出していた。


「私が自害するところに下賎の者が入れば、武士の恥となる。お経も今少しで読み終える。読み終えるまでの間、おまえが死んだとしても、私を守護しなさい」


弁慶の大往生は「死んでも殿の自害を守る」弁慶の最後の奉公だったのである。


そのころ、兼房と喜三太は櫓の上から飛んで下りたが、喜三太は首を射られ失せていた。

 

義経の最期

義経は、持仏堂で読経を終えると、一人残った兼房に自害の時を告げた。

義経は、幼少のころ鞍馬山で授けられた守刀を取り出すと、身体深く刀を突き刺した。


義経の命により、兼房は北の方の右脇に刃をあてた。


五歳になる若君は、兼房の首に抱きついて、「死出の山とやらに早々参らん。兼房急ぎ参れ」と言うと、兼房は、前後不覚になりながら、泣く泣く言葉に従った。


敵はすぐの処に寄せており、もう一刻の猶予もならなかった。


念仏を唱えながら、生後七日の姫君を母のもとに送った。


兼房は、屋敷の中を駆け回り急ぎ火を付けると、鎧を脱ぎ捨てて腹巻の上帯をぎゅっと固め、屋敷内に控える敵将兄弟との最後の戦に臨んだ。


いざ、兼房はまず大将長崎太郎に切ってかかった。老兵の必死の思いが天に通じたか、太郎は馬ごと地面に倒れ込んだ。兼房がここぞと押さえ込み、とどめを刺すその時、弟の次郎が馬上から兼房目掛けて切り込んできた。兼房はすこしも怯(ひる)まず敵を引き落とすと、素早く左脇に抱え込み、「ともに死出の山へ」と言い放って燃え盛る炎の中に消えた。

これから約二ヶ月後の文治5年(1189年)6月26日、泰衡は義経と通じていた弟の泉三郎忠衡を攻め殺した。

 

平泉の陥落

泰衡は義経の首級を頼朝のもとに届け吉報を待ったが、頼朝からの返答は、義経をかくまった罪により自ら出向いて奥州を征伐するという容赦のないものだった。

泰衡は頼朝に「義経を助けかくまったのは父秀衡で私はその経緯を知らない。父の死後あなたの命令で義経を討ち取った。それは功績というべきであり、私に罪がないのに征伐するのは何故か」と書簡を送ったが聞き入れられず、頼朝は、文治5年(1189年)7月19日大軍を率いて鎌倉を発った。


泰衡は頼朝が到着する前に居館に火を放って北へ逃れたが、9月3日元の郎従河田次郎に攻め殺された。泰衡の首級は9月6日志和郡(岩手県紫波郡)に滞在中の頼朝のもとに届けられた。


泰衡の首級は現在、中尊寺金色堂に清衡、基衡、秀衡の遺骸とともに納められている。



終わり


水色で表した「義経記」引用文のすべてに
現代語訳参照の為のハイパーリンクが張られています。

 

 

<< 語 釈 >>

保元の乱
後白河天皇崇徳上皇の皇室内部の争いと、藤原忠通藤原頼長の摂関家藤原氏の争いが結び対立が激化。保元元年(1156年)7月、源義朝平清盛と組んだ後白河天皇方が、源為義の軍を主力とする兄の崇徳上皇方を破り、上皇は讃岐に流される。この乱は貴族の無力を暴露し、武士が政界へ進出する大きな契機となった。

平治の乱
保元の乱の後、平清盛源義朝との間に勢力争いが生じる。これと、藤原通憲藤原信頼の対立が結び、平治元年(1159年)12月に、通憲は清盛と、信頼は義朝とそれぞれ組んで戦った。その結果、清盛の軍に義朝方が破れ源氏は勢力を失うことになる。
この乱で、信頼は斬罪、義朝は元家来の長田忠致を頼って尾張に逃げたが、平氏に寝返った忠致により殺された。

常盤御前
近衛天皇の皇后藤原呈子の雑仕を勤め、皇后の外出に伴ったり、身の回りの世話をした。義朝の妾となり義経を儲ける。義朝の死後清盛に従ったが、その後、藤原長成に再嫁する。
九條院・藤原呈子は選りすぐりの美人を雑仕にしたとされ、選ばれた千人の中からまず美しい百人を選び、更にその中から十人を選び、その十人の中からもっとも美しい一人を選んで雑仕にした。それが常盤であった。漢の李夫人、楊貴妃にも劣らないといわれた。


源氏の氏神である八幡神の使いとされる。

正門坊
義経の父・源義朝の第一の郎党と言われた鎌田二郎正清の子、三郎正近。僧となり正門坊を名乗る。平治の乱で父が斬られた時、正近は十一歳。正近も斬られそうになるが逃げ出し、後に出家して諸国を修行する。

遮那王
しゃなおう。遮那王は大日如来・毘盧遮那(びるしゃな)にちなんで付けられた名前。

吉次信高
金商いのために奥州と京を往き来した著名な黄金商人。
福島県白河市にある吉次の墓(1)  (2)  (3)

源九郎義経
源義朝の九男であったため源九郎とした。

鹿ヶ谷の陰謀
治承元年(1177年)京都東山の鹿ヶ谷にある僧・俊寛の別荘に、平氏の専制政治に反感をもつ、藤原成親、西光、俊寛、源行綱らが集まって平氏打倒の謀議を行うが、源行綱の裏切りで清盛に知られるところとなり失敗に終わる。成親と西光は斬られ、俊寛は薩摩の鬼界ヶ島に流され、そこで死んだ。
謀議の内容は、祇園祭の日に六波羅にある清盛の屋敷に火を放ち、清盛を焼き殺すというものだった。

武蔵坊弁慶
比叡山延暦寺、西塔の僧で武蔵坊と号す。幼名鬼若丸。熊野の別当の子と言われる。「義経記」などで伝説化されている。
つぎのような義経との出会いの逸話が伝えられている。
「義経が笛を吹きながら京の五条の橋を渡ろうとしていたある夜のこと、長刀を持った武蔵坊弁慶が両手を広げて義経の前に立ちふさがった。奪い奪って999本。さあ千本目となる太刀を渡せという。義経が構わず通り過ぎようとすると、長刀を大きく振りまわして切りつけてきた。これをひらりとかわして橋の欄干に飛び乗った。怒り狂う弁慶は長刀を力いっぱい振り回すが、義経にひらりひらりとかわされて長刀は空を切るばかり。弁慶はとうとう勢い切れて倒れ込んでしまう。こうして弁慶は千本目の太刀を諦めて義経の家来となり、この日から終生忠義を尽くした」

木曽義仲
平治の乱に破れ、義仲が二歳の時に父・義賢が殺される。その後、木曽の豪族に預けられ、木曽で育った為に木曽義仲と呼ばれる。
父・義賢は源義朝の弟で、義仲は頼朝、義経のいとこにあたる。

吾妻鏡
鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書。

宣旨・院宣・令旨
宣旨・・・天皇の命令を伝える公文書。
院宣・・・上皇か法皇の命令を伝える公文書。
令旨・・・皇太子などの命令を伝える公文書。

藤原基成
前陸奥守兼鎮守府将軍で、任期が終わった後も京に帰らず、秀衡の望みに応えて娘を秀衡に嫁がせ、そのまま平泉藤原氏の政治顧問的な立場でとどまった旧中央官吏。

行宮(あんぐう)
天皇が行幸(外出)した際の宮居。かりみや。

殿原・奴原
殿原(とのばら)・・・男性一般に対する尊敬語。
奴原(やつばら)・・・数多くの者をののしっていう語。やつら。


くつばみ。くつわ。乗馬の為の道具の一つ。馬の口にこれをくわえさせ、手綱をつけて馬を御するのに使用する。


<< 引用した「義経記」の現代語訳 >>

「牛若誕生す」で引用
母の命をたすけんとすれば、三人の子どもを斬るべし、子どもを助けんとすれば、老いたる母を失ふべし。子に母をばいかゞ思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとならば、子どもの為にもなりなん (と思いつゞけ、三人の子を引き具して、泣く泣く京へぞ出でにける)
母の命を助けようとすれば、三人の子どもを殺さなければならない。また、子どもを助けようとすれば年老いた母を失うことになる。<どうして子に母をば思い変え(=とりかえ)て処遇することなどできましょうか>子どもを助けるために、どうして母を捨てられましょうか。親に孝行を尽くす者に対しては、堅牢地神(大地をつかさどる神)が祈願を聞き入れてくれるというのなら、子どもの為にもなるだろう (と思いつづけ、三人の子を引き連れて、泣く泣く京に出向いたのだった)

「牛若、武芸を磨く」で引用

謀叛をおこす程ならば、はやわざをせでは叶ふまじ
謀叛(むほん)をおこすなら、武芸を身につけなければ達成できないだろう

源氏を守らせ給へ。宿願まこと成就あらば、玉の御寶殿をつくり千町の所領を寄進し奉らん
(源氏の氏神、弓矢・武道の神である八幡神に手を合わせて)源氏をお守ください。宿願が達せられましたら、立派な神殿をお建てし、千町(土地面積を表し1町は10段)の領地を寄進申し上げます

牛若殿の御ぐしそり奉れ
牛若殿の御ぐし(髪)を剃ってさしあげなさい

「『義経』奥州へ下る」で引用

いつの頃下り候はんずるぞ
いつごろ奥州に下りますか

明日吉日にて候

明日は吉日でございます

御辺(ごへん)は都に留って、平家の成り行くさまを見て知らせよ
あなたは(京の)みやこにとどまり、平家の移り変わりを見て知らせなさい

「源氏の旗揚げ」で引用
兵衛佐殿こそ謀叛を起して、八ヶ国を従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心ぐるしく候へば、追ひつき奉りて
頼朝殿が謀叛を起こして、(源氏に志のある)八ヶ国(武蔵、相模、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)を従えて、平家を討伐しようとして京にお上がりになると聞いております。義経がこのように(奥州で安穏と暮ら) しているのは心苦しく思いますので、私も謀叛を起こして参上し

馬の腹筋馳せ切り、脛砕くるをも知らず
駆けに駆けて馬の腹筋が切れ、すねが(折れ)砕けるのもかえりみずに

共に涙にむせび給ふ。互に心のゆく程泣きて・・・
共に激しくお泣きになられた。おたがいに心ゆくまでお泣きになられて・・・

「一ノ谷の合戦」で引用

一度もなれぬ船戦にも、風波の難をおそれず、船端を馳せ給ふ事、鳥の如し。一の谷の合戦にも、城は無双の城なり、平家は十万余騎なり、味方は六万五千余騎なり。城は無勢にて、寄せ手は多勢こそ、軍(いくさ)の勝負決し候ふに、城は多勢案内者、寄せ手は不案内の者どもなり。たやすく落つるべしとも見え候はざりしを、鵯(ひよどり)越えとて、鳥獣も通ひがたき巖石を、無勢にて落し、平家をつひに追ひ落し給ふ事は凡夫のわざならず
一度も経験していない海上での戦でも、風波(ふうは)の危険をおそれずに船べりをかけめぐられるなど、まるで鳥のようでした。一ノ谷の合戦でも、平氏の城塞は二つとないほどの堅固なものであるうえ十万騎を擁し、我が軍は六万五千騎でした。攻められる城が無勢(兵が少ない)で、攻める方が多勢というなら勝つのも道理というものですが、(一ノ谷の合戦では)平氏方は多勢で地理事情に詳しく、我が軍にとってははじめての戦場でした。これでは簡単に討ち取ることが難しいと思われましたが、鵯越えなどといって鳥獣でも避けるような岩場を通って(闇討ちし、)無勢ながら打ち負かし、平家をついに追い落とされたなどというのは凡夫(普通の人)のなせる技とは思えません

「悲しき褒美」で引用
莫大の勲功をもだせられ、義経犯す事なうして咎(とが)を蒙(こうむ)り、功有りてあやまりなしといへども、御勘気蒙るの間、空しく紅涙に沈む
*この引用文は、腰越で鎌倉入りを拒まれている義経が、頼朝の勘気(とがめ)を解き、仲介の労をとってくれるように大江因幡守広元に頼んだ書簡(義経の「腰越状」として知られる)の中の一節。
たくさんの勲功をそのままに捨て置かれ、わたし(義経)が犯したわけでもないのにとがめられ、手柄を立てこそすれ落ち度がないとしても、勘気をこうむっている今、むなしく心沈み血の涙をながしているのです

「吉野山に落つ」で引用
荒磯かけて漕ぐ時は、渚々になく千鳥、折りし顔にぞ聞えける。霞へだてゝ漕ぐ時は、沖に鴎のなく声も敵のときのこゑかと思ひける
荒磯をかけてこぐときは、渚で鳴く千鳥の声が、都落ちの哀れさを知って同情するように聞こえ、また、霞をへだててこぐときは、沖の鴎の泣き声を、戦下の敵の鬨かと思ってしまった

都に春は来れども、吉野はいまだ冬ごもる
京の都に春はきたのだが、吉野の山はまだ冬のままである

「静、あわれ」で引用
見るとても嬉しくもなします鏡恋しき人のかげをとめねば
鏡をいただいても嬉しくもありません。この真澄鏡(ますかがみ)を見ても映るのは心沈む私だけで、恋しい我君の姿を写してはくれないのですから

「義経、吉野を下る」で引用
九郎判官殿は、中院谷におはすなり。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿(頼朝)の見参に入らん
九郎判官(義経)殿は、中谷院におられるとのことだ。さあ、攻め寄せて討ち取り、鎌倉殿にお会い願おう

覚範さへもかなはず、まして我等さこそあらんず、いざや麓に帰りて、後日の詮議にせん
覚範さえ(佐藤忠信を討ち取ることが)できなかったのに、われらなどはもちろんできないだろう。さあ、麓に帰って、後日みんなで話し合おう

「秀衡臨終」で引用

境遥の道を凌ぎて、是まで下る事も、入道を頼みてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都におはすれ共、平家に渡らせ給へば、互に心よからず。兄弟ありといへ共、幼少より方々に有りて、寄り合ふこともなく、剰へ憐みを垂れ給ふべき頼朝には不和なり。いかなる親の歎き子の別れといふとも、是には過ぎじ
この遠境までやっとのことで下ってきましたのも、秀衡殿を頼ってのことです。父・義朝には二歳で別れました。母は京都においでになりますが、平家に渡ってしまわれたので、もう心を通わすこともありません。兄弟がいるといっても、幼少のときから離れ離れに暮らしており、寄り合うこともありません。そのうえ、心をかけてくださると思っていた頼朝殿とは仲たがいをしています。(秀衡殿のご逝去につきましては)どのような親の悲しみ、子との別れといっても、これに過ぎる悲哀はございません

たゞ義経が運のきはむる所
まったく、私の武運もこれまでである

同じ道にと悲しみ給へども、空しき野辺にたゞひとり、送り捨てゝぞ帰り給ふ
秀衡殿とともにあの世へと悲しみ歎かれましたが、空しいお気持ちで一人野辺送りをされ、お帰りになられたのでした

「高館の戦い」で引用

軍はかぎりになりて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢の三郎、各々軍思ひのまゝに仕り、打死仕りて候。今は弁慶と片岡ばかりに成りて候。限りにて候ふ程に、君の御目に今一度かゝり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はゞ、死出の山にて御待ち候へ、弁慶先立ち参らせ候はゞ、三途の河にて待ち参らせん
いくさは限界となりました。備前、鷲尾、増尾、鈴木、亀井、伊勢三郎は各自存分に戦い討ち死にしてございます。今は弁慶と片岡ばかりになりました。ぎりぎりの状況となりましたので、殿にもう一度お目にかかるために参上致しました。殿が先にお立ちになられるなら死出の山(冥土にあるという険しい山)でお待ちになっていてください。弁慶が先立ちましたら三途の川(冥土へ行く途中の川)でお待ちしています

今一入(ひとしお)名残の惜しきぞよ、死なば一所とこそ契りしに、我も諸共に打出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人(ぞうにん)の入れたらば、弓矢の疵(きず)なるべし。今は力及ばず、假令(たとい)我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば誠に三途の河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ
今は、ひとしお名残惜しく思っている。死んだら一緒に死出の旅をと約束したのだから、私も弁慶らとともに戦おうとも思うが、泰衡が攻めてきたならともかく長崎太郎なる物が相手では私が出ることもない。弁慶をここに引き留めればみかたの者が討ち死にする。私が自害するところに下賎の者が入れば、武士の恥となる。今は力およばず、たとえ私が先立っても死出の山(冥土にあるという険しい山)で必ず待っている。弁慶が先立ったら、きっと三途の川(冥土へ行く途中の川)で待っていなさい。お経も今少しで読み終える。読み終える間は(弁慶が)死んだとしても、私を守護しなさい

六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありとも
まもなく軍が終わろうとしています。わたしもつづいて参りますので、六道の辻(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天界の分かれ道)でお待ちになっていてください。「おくれ先立つ」(一方が先に死に、もう一方が生き残る)という習いはありましょうとも

後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで
そなたとは、あの世でまた、その後の世でもまた巡り会いたいものだ。弁慶よ、できるなら、もうこのような戦いのない紫雲の上の極楽までいって、是非会いたいものだなぁ

 


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