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「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」関連 特別企画
編著:LAP Edc. SOFT文芸班
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義経の父・源義朝 源義朝は、清和源氏の祖である経基六代の孫為義の長子として生まれた。 |
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源義経は平治元年(1159年)、源義朝と常盤との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第三子として誕生し、牛若と名付けられた。
ある夜、鞍馬山に身を置く牛若のもとに正門坊と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将義朝の子であること、牛若の兄源頼朝が今伊豆の国に流されていること、さらには、源氏代々の武功勇武などを熟々(つらつら)と語った。 そんな折、吉次信高と名乗る者が遮那王のうわさを聞き面会に訪れた。吉次は、金買い付けのために奥州と京を往き来する著名な黄金商人で、商売がら奥州藤原氏と親交が深かった。 |
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| こちらから源義経ゆかりの地「平泉」のムービーがご覧いただけます。 |
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| 芭蕉が見た奥の記念物「中尊寺金色堂」 | |
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義経が平泉で十九歳の春を迎えたころ、後白河法皇をはじめとする貴族や武士の間に、政治を我が物にする平氏一門への反感が深まっていた。 このころ京では、衰えを見せはじめた清盛に追い討ちをかけるように、源氏ゆかりの武士が次々に反旗を翻し兵を挙げていた。これを反平家の僧兵の後押しと判断した清盛は、治承4年(1180年)12月、四万の軍勢で大津の園城寺(三井寺)や奈良の東大寺、興福寺を焼き払い弾圧した。 頼朝が京攻めを先に見送り、黄瀬川の陣から鎌倉に引き上げたころ、木曽義仲こと源義仲は、越後など北陸を一気におさえ、京に一番乗りで攻め入った。これにより平氏一門は、京に火をつけ西へ逃れることとなった。 九州へ逃げていた平氏は、四国へ進出して屋島に行宮を建て、南海や山陽を支配下におさめて勢いを取り戻し、京に攻め上る気配を示していた。 |
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寿永3年(1184年)9月、頼朝は、義経に頼らず、範頼を総大将として屋島の平氏を討たせようとしたが成功せず、逆に平氏側が勢いを取り戻していた。 平氏の逃れた先は関門海峡近くの小さな島・彦島であった。彦島の先は玄界灘、陸には範頼の軍勢が待ち構えている。逃げ場を失った平氏はここでの合戦に最後の望みをつないだ。 義経は、数々の手柄をたて鎌倉に凱旋しようとしていたが、鎌倉に近い腰越まで来ると、頼朝の使者によって当地から先への立ち入りを阻まれた。こうして、ひと月ほど腰越に足止めを食らい、結局、鎌倉には一歩も足を踏み入れることなく京に帰らざるを得なかった。 |
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このまま京にいることに危険を感じた義経は、西国支配の宣旨が下されるのを待って、西方を目指すことにした。 静を伴って吉野に着いてはみたものの、慣れない山越えの道中で疲れ果て、そのうえ義経の子をはらむ身であった。そこで、義経は静を京に返す決心をし、数人の家来をつけて山を下らせた。 山中で静が捕らえられたことにより、義経が吉野に潜んでいることを察知した僧徒たちは、「九郎判官殿は、中院谷におはすなり。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿の見参に入らん」と意気込んだ。 吉野を下った義経主従は、その後、頼朝方の目から逃れるため奈良や京都で散り散りに身を隠したが、このまま隠れ居を続けても事態を好転できる望みがなく、義経は奥州平泉へ逃げることを決意した。 |
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しかし、ここで義経の運命を大きく揺さぶる事態が発生した。都落ちから1年も経たない文治3年(1187年)10月29日、義経を強力に支援する秀衡を病で亡くしてしまったのである。 秀衡に対しても、義経の処遇について院宣が下されるなどの圧迫があったが、死後の文治4年になると、俄然その動きがあわただしくなってくる。 そしておよそ1ヶ月後の4月30日の朝、泰衡は、家来の長崎太郎を大将にして五百騎の軍勢で義経の居館高館に攻め込んできた。 義経の手勢は、大手門に残る弁慶、屋根で弓を引く兼房と喜三太の三人のみとなっていた。 義経は、持仏堂で読経を終えると、一人残った兼房に自害の時を告げた。 泰衡は義経の首級を頼朝のもとに届け吉報を待ったが、頼朝からの返答は、義経をかくまった罪により自ら出向いて奥州を征伐するという容赦のないものだった。 |
終わり 水色で表した「義経記」引用文のすべてに 現代語訳参照の為のハイパーリンクが張られています。
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<< 語 釈 >> 保元の乱 |
<< 引用した「義経記」の現代語訳 >> 「牛若誕生す」で引用 「悲しき褒美」で引用 「吉野山に落つ」で引用 「静、あわれ」で引用 「義経、吉野を下る」で引用 |
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