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| 山崎藤吉著 「芭蕉全傳」 | ||||||
| 第 一 編 第 三 章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 (2) |
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○延宝六年 35 |
信徳 ・素堂との江戸三百韻 |
_ | 第三章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 (2) 延宝六年(三十五歳) |
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信徳履歴 |
_ | かすみとともに道化人形 信徳 青い面咲ふ山より春見えて 桃青 芭蕉も素堂も、延宝四年頃から談林風に染まって居た、此の「江戸三百韻」もまた其臭味が存している、併し、芭蕉等は、談林風の奥行の浅いのに飽が来たらしく、三人共同して新風を興さんと企てた所の合産物と認められる、此後信徳は「七百五十韻」を作り、芭蕉は「次韻」を作ったのも、右と同じ意味に於いて企てられたものである。右の芭蕉の「鰒と汁」の句の初五文字は、芭蕉が附け兼ねて其まゝにして置いたのを、信徳が附けたのだといふ。 信徳履歴 信徳は京都の人、通称を伊藤助左衛門といひ、竹丈子又は梨梯園と号し、新町夷川に住んで居た、初め松永貞徳に俳諧を学び、一字を与へられて信徳と称した、師歿して後、山本西武に学び、西部歿して後、高瀬梅盛に学んだ、延宝五年冬、江戸へ来て芭蕉、素堂と親み、又屡々(しばしば)談林派の人々と会して、祖師伝来の風を変じた、其後実業の都合で時々江戸へ来たといふ。 芭蕉よりは先輩で、又十四、五歳も年長であった、芭蕉が一家を成したる天和の頃からは、芭蕉との関係が殆ど絶えたのは何故にや、後元禄十一年十月十三日歿した、年六十六。 秋、桃青、二葉子、紀子、ト尺と四吟歌仙が成った。 実にや月間口千金の通り町 桃青 爰に数ならぬ看板の露 二葉子 (四七頁) |
| _ | 二葉子は、談林派の貞宣の息で、当年僅に十二歳の少年であるにも拘らず、此時「江戸通り町」二巻を撰んで、其奇才を知られた、此の桃青以下の四吟歌仙は、「江戸通り町」の中に載せてあるのである。 四友亭で、須磨、明石の題で、桃青、似春、四友の三吟二百韻の連句興行があった。 見渡せば詠れば見れば須磨の秋 桃青 須磨ぞ秋志賀奈良伏見でも是は 似春 ほのぼのとの浦さし添へてつき 四友 沖の石玉屋が袖の霧晴て 桃青 土屋四友は、通称を外記といひ、松平出羽守の家臣である、芭蕉と深交のあった人と見えるけれども、其履歴が分らない、其年冬芭蕉は四友を送って、鎌倉まで行った時の句に、「霜を踏みてちんばひくまで送りけり」とて交誼の濃(こまや)かさを述べて居た、此のちんばの句は、天和頃の作と言はれて居るが、年が不明だから此処に附録する。 是より先、杉風が入門した、是秋、桃青、杉風の「両吟百韻」が成った。 延宝六年の十八番句合の判詞の中に、「予が門葉杉風」の詞が見えて居る、されば杉風は、延宝六年以前に於いて、芭蕉に師事したことが知られる、 「両吟百韻」の巻頭句。 色付や豆腐におちて薄紅葉 桃青 (四八頁) |
| 杉風履歴 |
_ | 山をしぼりし榧(かや)の下露 杉風 芭蕉真蹟の両吟百韻一巻が、独庵三世寛美の家に伝来したものが有って、其れを其のまま模写して、天明六年に板行した、此の板は弘く世に流布して有名である、此の写真がそれである。(図版の掲載は省略) 又杉風の家に伝って居たものを、近頃写真版にしたのがある、どちらも当時の芭蕉の筆意を窺ふには差支ない、私の見た所では此の芭蕉の筆蹟は能筆とは思はれない、正直に云へば、粗筆と言ひたい、芭蕉が短冊を書くことを嫌ったことも尤もと思はれる 杉風履歴 杉風は江戸の人、杉山氏、江戸小田原町に住み魚商を営み、幕府の御台所から指定された鯉の納入者であった、夫れで御納屋御用と云ったのである、祖父を鯉屋市兵衛と云ひ、二代目を市兵衛仙風と云ひ、天和の頃死 (四九頁) |
| _ | んだ、三代目が市兵衛杉風である、家産頗る富有であった、性俳諧を好み、北村季吟の門に入り、又談林風にも遊んだが、延宝四、五年の頃、蕉門に入て以来、俳諧を楽むこと五十年、採茶翁と号した、後、家政稍々衰へ、家業を四代目市兵衛随夢に譲って隠居し、衰翁と称した、器頗る高く、蕉門の重鎮であった、芭蕉は興に乗じて、去来は西三十三ヶ国、杉風は東三十三ヶ国の俳諧奉行だと言ったといふが、恐らく後人の捏(ねつ)説であらう、又其角、嵐雪、桃隣、杉風の四人を、江戸の四大家と呼び、之に素堂を加へて五色墨など称された。 性温厚親切、許六は、此人器も鈍でなく、実が過ぎて居ると評した、平素多病の質で、其上耳が遠くて、師や同門等の談話がよく通ぜず、為に流行に後るゝの不幸を甞(な)めた、芭蕉は之を憐んで、蕉門中に声の句を詠むことを禁じたとさへ伝へられて居る、人格樸[朴]直で、師を敬すること厚く、又師の生活を後見し補翼するに努めたことは、他の門人等の及ぶ所ではなかった。 芭蕉歿後、支考が師の名を售(う)り、卑劣の行為の尠(すく)なからざるを悪(にく)んで、若し支考が江戸の地に足を踏入れたならば、彼が両脚を断ちくれんと憤慨したといふ、享保十七年六月十三日歿す、年八十六、西本願寺地内成勝寺に葬る、十七代の孫杉山権兵衛は、東京市本郷区駒込動坂町に住し、大工を業として居ると聞く。 世に知られた杉風の句 がっくりとぬけ初る歯や秋の風 雪の松おれ口みれば尚寒し (五〇頁) |
| _ | 水無月や木末ばかりの風ゆるぎ 京都の俳士青木春澄が、松島遊覧の帰途、江戸で似春、桃青と歌仙を興行して三巻成った。 鹽にしてもいざことづけん都鳥 桃青 只今のぼる波のあじ鴨 春澄 是冬、坐興庵桃青素宣の名で句合の判者をした。 延宝六年の十八番句合の跋に 前後十八番の句合、やつがれ馬頭(うまのかみ)になりて物定(ものさだめ)の博士にさされ侍る(中略) 延宝六初冬日 坐興庵 桃青 素宣 千春、信徳、桃青の三吟歌仙が成った。 忘れ草菜飯につまん年のくれ 桃青 ざる味噌こし岸伝ふ雪 千春
此頃、筆蹟能からずとて、短冊を書くことを断った。 |
| _ | 某年某月二十二日附 追て申入まゐらせ候、其許に逗留中に、清草御帰りに御約束申候短冊、此度遣し申度候へつれども、二三度ばかり認め申候処、さんざん不出来見苦しく候故、其許へ御出若御尋候はゞ、此段申達可 わすれ草菜飯に摘まん年の暮 如 二十二日 はせを 書状中にある「わすれ草」の句は、延宝六年か若くはそれ以前の作であらう、此手紙に、「はせを」と署名してある点から見れば、天和二年以後のものと判じなければならぬので、句と手紙との間に不一致の点があるやうに見える、併しながら此手紙を写し取る時、写す人が桃青とある書名を勝手に「はせを」に改め写すことが、俳人間の癖になって居るから「はせを」とある署名があてにならない、己を得ず、署名を離れて、手紙丈けによって年代を判断するに、延宝六年を去ること遠からざる時代のものと認めて、便宜上延宝六年に収録する、必ずしも此手紙が延宝六年のものだといふのではない。 芭蕉の筆蹟のことを述べた序(つい)でに、筆蹟に関する條項に連絡を附けておく。 (五二頁) |
| ○延宝七年 36 |
嵐雪入門 |
_ | 素堂の需(もとめ)によって和漢朗詠集を浄書したことが、貞享三年十二月にある、雲竹に手習を学んだことが、元禄三年四月幻住庵に入った條にある、又手が痺れて文字が書けないから、手紙は粗末に書く、又末代への愧(はじ)さらしだから色紙短冊の類は断はる、と言ったことが、元禄三年八月の粟津の無名庵に入った條にあるから参看されたい。 是歳、嵐亭治助(はるすけ)嵐雪が入門した。 嵐雪の履歴は、元禄六年春の桃桜の所に掲げる。 是歳の句 孔子は鯉魚のさしみにあてられ 夜起する糞土の垣に月更て (江戸広小路) 今朝の雪根深を園の枝折かな (坂東太郎) 延宝七年(三十六歳) 春、杉風の夢想俳諧に、桃青、杉風等の八吟八句が成った。 捧げたり二月中旬初茄子 桃青 (存疑の句) 天下のおかげ我等まで春 杉風
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| 立圃履歴 |
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立圃履歴 野ゝ口立圃は丹波の人、通称を庄右衛門、名を親重といった、京都へ出て雛人形を商ったので雛屋と称した、俳諧を松永貞徳に学び、剃髪して立圃と称し、また松翁と号し、俳壇に一派を創め、立圃風と称せられ、貞徳門七俳仙中、最、名高かった、又絵を能くし、著書も頗る多い、寛文九年九月三十日歿す、年七十一。 |
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| 蕉風俳諧の基礎固め | _ | 七年二月の所に掲げる。 此歳の句 草履の尻折りて帰らん山桜 「句選年考」の庭の巻を引いて「上野花見に雨に逢うて吟じたる 昔の句なり」とあり。 夏の月御油より出て赤坂や
芭蕉は、延宝四年春頃、談林風調に共鳴し始めて、延宝七年頃まで、談林風の臭気が抜けなかった、今上に述べた延宝七年の彼の詠草に就て見るに、一方には「阿蘭陀も」の句が、談林臭が残って居るかと思ふと、他の一方では御油、赤坂の句で、談林風と反対の直感的自然吟を謡って居る、斯くの如く、両刀を使ふのは、談林風の技巧と、自分等の主義とする直感的自然吟とを、両々併せ使って、其得失と優劣とを試験したのであらう、此後、異国 |
| 趣味の句や、談林臭い句は、殆ど見られなくなたが、直感的自然吟の方は益々発達して、翌延宝八年には、代表句として「枯枝に烏」の佳句を吐くやうになった所を観ると、一方には、延宝六年頃から直感的自然吟を徐々に進めながら、他の一方には、談林臭を次々に放擲(ほうてき)しつゝ進んだことが分る、同時に愈々(いよいよ)蕉風の自然吟の基礎を固めつつ進撃して行ったことが分る。 芭蕉に、帰国、帰参を勧めたれども、承知しなかったとの異聞 「次郎兵衛物語」に、延宝七年二月、次郎兵衛が江戸へ来て芭蕉に帰参を勧めた話が載って居る、其要を左に。 寛文六年芭蕉が主家を脱出してから十二年間、郷里へは音信不通であった、十二年目の延宝七年二月、次郎兵衛が所用の為江戸へ下った時、東叡山の涅槃会の帰途、橘町で初て芭蕉に逢った、其時切に帰参を勧めたけれども承知しなかった。 といふのである、寛文六年から十二年間音信不通とあるのは謬(あやまり)である、その理由は、寛文十二年に京都遊学から伊賀へ帰っているからである、また東叡山の涅槃会の帰途に逢った話も受取り難い、何れも捏造説であらう。 (五六頁/本頁p.8に続く) |
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| 第 一 編 第 三 章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 (2) | p.7 |
山崎藤吉著「芭蕉全傳」 第1版発行:明治36年 第2版:大正5年 第3版:昭和10年、16年 |
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