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| 山崎藤吉著 「芭蕉全傳」 | ||||||
| 第 一 編 第 三 章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 (1) |
| _ | 俳諧師を業とす ト尺の話に、 風人の習ひ俗事にうとく、其任に勝(た)へざる故にや、職を捨て、深川といふ所に隠れ、俳諧を以て世の業となし申されし、と父の物語に聞きぬ、此時延宝四年にて三十四(三)。 とある、深川に隠れたといふのは筆の余勢であって、隠れたのが延宝四年だと云ふのではない、四年から俳諧を以て営業にしたといふのである。 営業した場所は分らないが、小田原町の杉風の所とは程遠からぬ所であらう。 開業に伴って当然来るべきものは改名である、営業と改名に就ては多分披露したことゝ思ふ。 改名 次の條に掲げてある芭蕉が宗因との興行句「こちとらづれも此時の春」は延宝四年春の興行と認める、之に桃青(芭蕉)の署名がある、又其次の條に掲げてある延宝四年三月素堂との連句「春二百韻」に桃青の署名がある、又延宝四年板なる季吟の「続連珠」に宗房の名で入句して居るが、其作者名寄の條には。 松尾氏、桃青、住 とあって桃青の名を記して居る、又延宝四年の季吟の「勤進選句」にも、同四年の貞室の「俳諧当世男」にも、桃青の名で入句して居る、されば、桃青と改名したのは、延宝四年の春か、若くは其れより以前であらねば (三六頁) |
| _ | ならぬ、或は延宝三年かとも思ふけれども、三年とした慥(たし)かなものをまだ見ないから、桃青の名の初めて見えた延宝四年の春を以て、改名した時と仮に定めておく。 桃青を改名した年次に就ての異説 俳士貞朗は、寛文十二年芭蕉がまだ京都に居た時の改名だとて、某証拠に左の文書を挙げて居た。 夕方より愚亭にて相催候間、御来臨可 昨夕伊賀より宗房上京仕候て、桃青と改名いたし候由、其名かへの 桃青にも相待被 為、俳諧致呉候様申候間、即申入候、御覧可 名をかへて鶉(うずら)ともなれ鼠どの 季吟 安静丈へ 此の書状面から見ると、季吟も安静も宗房(芭蕉)も、共に京都に居た時のものと見える、宗房が京都に居たのは、寛文十二年か夫れより前のことである、それで此書状を寛文十二年と見たのであらう、けれども日附は無し書状に疑はしい点が有って、信じられない。 (三七頁) |
桃青号の出典 |
_ | 又一説に、延宝五年の「六百番俳諧発句合」に、桃青の名で「門松やおもへば一夜三十年」の句が載って居る、芭蕉は正保元年の出生だから、夫れより三十年目は延宝元年で、其前の年は寛文十二年である、だから寛文十二年在京中に、桃青と改名した訳だと言はれる。 けれども、此句の場合の三十年は、只概数を言った丈けだから、此説に拘泥するには及ばない、況(いわん)や延宝五年には、芭蕉は三十四歳だから、此説は信ずるに足らない。 桃青の出典 桃青の号の出典には諸説がある、李白に倣ったのだと云ひ、梅子熟せざる意に取ったのだと云ひ、桃を折って悟れと説かれたからだと云ひ、詩経の桃夭(とうよう)の意によって、先祖の姓桃井の音を取ったのだと云ひ、或は詩の碧梅からとも、又禅家の語録中からとも言はれて居る、其中の一、二を挙ぐれば。 室鳩巣云 桃青も昔人にて、李白に学び候て桃青とつけ申候由に御座候、(兼山麗澤秘策) 支考云 本所原庭黙宗和尚に参禅し、後剃髪せし時、梅子熟せざるの意を取りて桃青と号せり。 梅人云 桃青の名の出所、リンセン寺仏頂和尚に禅法を問ひける時、和尚桃を折て悟れと有りしより表得し給ふ由、杉風家申伝候由、高橋鯉屋庄兵衛咄にて、右鯉屋庄兵衛は、リンセン寺と四五軒隔たり、翁(芭蕉)も仏頂和尚も、此寺のうらに住み給ふとぞ、庄兵衛咄なり。 などである、猶「説叢大全」には黒露(素堂の姪)の話を記して、桃青の名は、京都の儒医桐山正哲(俳名智機)から、芭蕉の先祖の姓なる音を取り、詩経の桃夭の意によって附けて貰った名であると言ひ、「茗荷」には桃 (三八頁) |
| _ | 青の号は、支考が云ひける梅子未だ熟せずにはあらで、別に出所あらん、麻布といふ所にも、青桃院といふ寺あれば、必禅録などによりどころあらんかと言ひ、或人は、詩に碧梅といふあり、碧桃相同じ、碧は白にて至て白きものは青く見ゆる故なりとぞと言ひ、又或人は、鳩巣の言の如く、李白に対しての桃青ならん、翁常に李杜寒拾を慕ひ申されければ、必ず是ならんと言った。 併ながら、梅人の話のやうに、仏頂和尚に参禅した時のこととする時は、其参禅が延宝四年頃のことになる訳である、さうすれば深川へ移ってからの参禅でなくなるので、年次に齟齬(そご)が生じて来る恐れがある。 春、素堂、芭蕉等は、幽山、似春の大家とともに宗因歓迎の俳諧を興行した。 延宝四年春、芭蕉、素堂は、 素堂と芭蕉の句。 梅の花俳諧国にさかんなり 信章(素堂) こちとらづれも此時の春 ← 桃青(芭蕉) 梅の花は宗因を指したのである、宗因は難波に居て梅翁と号したからである、是句は一応の挨拶に過ぎぬかも知れないけれども、夫れにしても宗因に迎合したさまが明らかに見える、是は延宝四年春のことであらう、又此時芭蕉は桃青といふ俳名を用ひて居た。 (三九頁) |
| ○延宝四年 33 |
素堂と二百韻を興行 | _ | 芭蕉は、宗因には面接して居ないと説く人があるが、右の興行で一座して居ることは慥(たしか)である、冠山が。 芭蕉は貞徳老人の流を好み、洛の季吟、貞室、摂の宗因等に親しみ・・・ と宗因に親んだと言ったのは、拠のあることであらう、又俳士吾山は、「桃青は宗因と屡々(しばしば)会談した」と言ひ、近年俳人酒竹も「延宝七年宗因と初めて相会す」と言った。 但し吾山が「朱紫」(天明四年)に書いてある逸話は真偽相半ばして居ると思ふ、左に。 延宝の頃、西山宗因東都に下りて新風を弘めけるに、荷担するもの十八人あり、浄土宗十八壇林になぞらへ、一字を換へて談林とぞ呼びける、是即ち滑稽なり、其頃桃青も下りて居けるが、市村竹之丞芝居にて、宗因に始めて出会ひけり、宗因門弟某ありて、句を案じ「子はまさりけり竹之丞」として冠(和歌・俳諧で、はじめの五文字)を置きかね、師に伺ひければ、「おやおやおや子はまさりけり竹之丞」とすべしと申しけりとなん。 とある、いかにも作り事のやうに思われる、宗因の勢力を誇張した偶話としては、有りそうな事である、つまり、こんな有様で、江戸の俳壇が、宗因に荒されたといふ一挿話として見られやう。 斯うして後、貞徳流の古風であった芭蕉も、延宝三、四年の頃から談林風に転向して来た。 (延宝四年)三月、素堂と、天満宮奉納の連句「春二百韻」が成った、一名「江戸両吟」とも云ふ。 春二百韻の発句 (四〇頁) |
| _ | 此梅に牛も初音と鳴つべし 桃青 ましてや蛙人間の作 信章 今までの芭蕉の連句で、一巻を通じて残って居たものは無い、一巻を通じて、其面目を窺ひ得るのは、此の「春二百韻」からである。此の「春二百韻」を通じて見て、目に附くことは、芭蕉が談林風に化して居ることである。此の奉納句もさうである。芭蕉が宗因に対して傘下に見参したか、或は一応の挨拶交際に止まったかは判らないが、句作の上では、稍々(やや)談林風に化せられて来たことは、いなみ難い事実である、「春二百韻」の中に。 照つけて色の黒きや佗つらん 信章 わたもちのみいら眼前の月 桃青 みいら という異国語をよみ込んで居る、此外猶芭蕉の句には、かるた、さらさ、ふらすこ等の異国語をよみ込んだものがある。 当時談林派の作者は、古風に飽きて、頻りに新奇を欲求する所から、盛に南蛮紅毛の趣味を振廻はし、異国語を使った、芭蕉は其等の新奇に感染したものと見える、異国語を使ったから談林風だの、和蘭陀派だのと一概には言へないけれども此処の芭蕉の場合は、慥(たしか)に談林風に化して居るものと見られる。 談林風に化した他の一例 延宝四年の季吟の「続連珠」の中に。 (四一頁) |
素堂履歴 |
_ | 川かぜ寒き夜半の雪隠 都出てけふみかのはら痛むらし 桃青 とある、痛むなどは、談林風の言語上の洒落にしか過ぎない。 斯ういふ風に、延宝三、四年頃から談林風に化されかゝってきた。 芭蕉の連句で現在遺って居るのは延宝以後のものだと前に言って置いた、其れは俳諧を業にしたのが延宝四年であるから、自然さうしたことになったのであらう。 素堂履歴 山口素堂は、甲斐巨摩郡山口の人、名を信章といひ、芭蕉より一ツ年上であった、家頗(すこぶ)る富む、江戸に出で経学を林春斎に学び、又京都に行き俳諧を北村季吟に学んだ、夫から芭蕉と相知ったのである。尋(つい)で甲斐に帰り、代官桜井政能に属して笛吹川疎水工事に宰して功あり、依て蓬沢村に祀られ、山口霊神と崇められた、後家業を弟に譲り、延宝三年、再び江戸に来て、下谷池の端に居を占めて経学を講じて業とした、人呼んで蓮池翁と称した、此時から芭蕉との交際が多くなった、頗る博通多才の士で、和歌、書道、茶道、雅楽、謡曲等にも通じて居た、芭蕉は素堂を敬って先生と言って居た、後年素堂が嵐雪を悼む辞の中に、延宝五、六年頃の芭蕉との関係を述べて居るので、交歓の状が知られる、江戸三百韻以後(延宝六年)二人の交情は益々深かった、芭蕉が深川へ移った後、素堂も亦葛飾の阿武という所に隠居した、其処が、芭蕉庵と稍々近かったので、益々相往来して親しみを加へた。芭蕉の俳諧研究は素堂に待つ所が甚だ多かったことは、特に注意に価する所である。 (四二頁) |
| 郷里伊賀へ帰郷 | _ | 初め素仙堂と号し、後素堂を以て俳名とし、又今日庵、蓮池亭とも号し、葛飾派の祖と仰がれ、五色墨の一に数へられた、又諸国を遊歴して、江戸、長崎の間足跡を印しない所はなかった、享保元年八月十五日歿す、年七十五、谷中感応寺中瑞音院に葬った、 世に知られた句 目には青葉山郭公はつ鰹 素堂 夕立にやけ石涼し浅間山 ほぞ落の柿の音きく深山かな 著書 松の奥 とくとくの句合 素堂家集 是歳 歳暮の作 成にけり成りにけりまで歳の暮 (六百番発句合) 是歳郷里伊賀へ帰郷した、との説。 蕉翁全傳 の著者の言ふ所によれば、延宝四年六月頃、伊賀上野町に帰省したとある、其証として延宝四年版の「続連珠」に。 (四三頁) |
| _ | 雲を根に富士は杉なりの茂かな の句のあることを挙げて居た、是は此句が帰省道中の作と見られるからであらう、又同書にある「今日の今宵ねる時もなき月見かな」の句を、帰郷の際の月見と認めたかららしい、猶ほ「蕉翁全傳」に。 延宝四辰のとし故郷に帰るとて 山のすがた蚤か茶臼の覆かな の句を挙げて、其証拠にして居た、此の句の山は富士を指したのだ、是が芭蕉の自ら記したものたることが明かであれば、何の異論もないが、此の前書の「延宝四辰のとし・・・」は芭蕉の自記でなくて「蕉翁全傳」の著者の書入であらう。 右に挙げた外に 高畑氏市隠亭にて 富士の風や扇にのせて江戸土産 山岸半残が会 百里来たりほどは雲井の下涼み 桑名氏興行、渡辺何某宅にて 詠(ながむ)るや江戸にはまれな山の月 (四四頁) |
| 此等の句が、郷里伊賀にての興行であるからとの理由によってである、猶ほ句の季が夏であるから、六月頃といふのであらう。 萩原羅月氏の調べによると、常陸の本間家に伝わった医家年鑑の記録に、芭蕉は、延宝四年、父の病を聞いて故郷に帰ったとあるから、或は其頃父が亡くなったのかも知れない、芭蕉の母の歿年はよく分らない云々とて延宝四年帰郷したことを肯定して居る。← 延宝五年(三十四歳)、此頃の事と伝ふ、越前の俳人等栽が訪問したと。 後元禄二年秋、北陸行脚の時、越前に等栽を訪問して旧交を温めて居る。 是歳の作 門松やおもへば一夜三十年 (六百番発句合) 猫の妻へついの崩れより通ひけり 雨の日や世間の秋を堺町 (以上、江戸広小路)
(四五頁) |
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| 第 一 編 第 三 章 俳諧師 二 談林風の芭蕉 (1) | p.6 |
山崎藤吉著「芭蕉全傳」 第1版発行:明治36年 第2版:大正5年 第3版:昭和10年、16年 |
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