おくのほそ道  [資料集]
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
おくのほそ道 二十三二十七 [資料]
【塩釜、松島関連】 橘南谿著「東遊記」
後編(寛政九年刊)「四之巻・松島」からの抜粋
 五月八日、奥州松島見物のために、鹽竈(塩竈)の町杉坂といふ所の津国屋(つのくにや)和助といへる旅館に宿す。あるじいふは、明日の松島御見物は幸の御友こそあれ。初より奥の座敷に泊り給ふは禅僧にて、四五人連なり。明日は舟かりて松島見物せんと宣(のたま)ふ。同船して見物し給へといふ。それこそは能き連なれ、旅の僧、物語も珍らしからんと楽しみ居たるに、奥の座敷僧にも似ず振舞て、高声に笑ひのゝしりけるに、初夜(戌の刻。午後八時ころ)過る比にはこの町の妓婦四五人を召来りて、酒をも肉をも呑食ひ、出家の小唄、浄瑠璃、さすがにふしつたなく、殊に奥なまりにて聞も苦し、妓女のひける三味線は薩摩などにある六調子といふに似たり。其かまびすしさいふもさらなり。乱酒放遊こなたの座敷まで安からず。扨(さて)も無慚の法師原やと、うとましくて其夜は明ぬるに、いざ船かりて乗らんといふに、彼遊女そのまゝに携へて、衣かなぐりすて、鉢巻横ざまにしめて踊り狂ふにぞ興ざめて、此法師らと同船せば、あたら松島の風景もいかでかのどやかに見るいとまあらん、あら不祥の法師やと思へば、詞かはすさへ口汚るゝやうにて、同船の事はやめたり。それより只二人、鹽竈の浦より松島の雄島まで二里半の所を、賃銭纔(わずか)に四百文にて小船一艘を買切漕出す。天気殊にのどかにて、風さへ静なるは、天幸を得たりといふべし。東に向うて行に、岸より纔に五六丁の所に小き島あり、弁天島といふ。夫(それ)より十八町にしてかの名だたる籬が島あり。右の方に東宮浜といふ里あり。向うの沖の切戸の出崎を湯が崎と云。皆漁家なり。籬が島より左に折て、舟の頭北の方に向ふに、東の方に島々連れり。大きなる島近く隔りて、其島の切戸より東海を見る。其大なる島より外にある島々、我舟の過るに従うて北よりして南に移る。小き切戸の数々の島を繰出す事の、のぞきからくりを見るごとく、又芝居抔(など)の引道具をみるがごとし。其島皆甚大ならずして、色々の形あり、多くは皆其形を以て島の名とす。地蔵島・烏帽子島等は其形尤(もっとも)よく似たり。其外、
  筆捨島   沖唐戸島  松の島   水島    両犬島  鍋島   親船島
  屋形島   二子島   鐘かけ島  蛇島    鼓島   大鼓島  青海島
  汐干島   松が浦島  橋かけ島  旗が島   内裡島  后島   都島
  二王島   鹽焼島   物言島   主水島   柵島   箕輪島  鎧島
  籠島    化粧島   鞍懸島   あぶみ島  貝の島  伊勢島  小町島
  毘沙門島  大黒島   夷島    ふくら島  雄島   旭島   翁島
  千貫島   経の島
 猶此外に、船頭色々の島をさして教へしかど、書しるすまに船行過て、四方の景色を見洩さじとするに心のいとまなくして、十分の一もしるし得ず、八百八島有りと云。誠に数百に余れりと思ふ。鹽竈の千賀の浦より松島迄二里半の間、泉水のごとく海亦甚深からず、五六尺或は七八尺許(ばかり)に見えて、底甚明なり。かのごとく、島の間皆入海なれば、風ありといへども波立事なしといへり。此島々の松皆赤色にして、枝皆下に垂れ、作れる松のごとし。故に其景色艶美にして猛からず。扨舟を雄島に附て、上り見るに、雄島頗る大なり。此島は見仏禅師の座禅の地なり。其堂宇今に連れり。島の南の辺に高さ一丈に余れる碑有。元の僧寧一山鎌倉建長寺に住持せし時、見仏禅師の為に書する碑にして、字体は草書なり。苔封じて文字見えがたき所多し。世の人石摺にして珍重する石碑なり。其外、此雄島には、芭蕉の朝な夕なの吟(朝よさを誰まつしまぞ片心。句碑は延享四年<1747>の建立)をはじめ、俳諧者流の発句の碑、或は騒人の詩碑等甚多し。然れども此佳景に対すべき作有ぬとも覚えず。扨雄島見めぐりて、大なる橋を渡り、他の島にのぼり、又其島より橋にて松島に渡る。今松島と名附る所は陸地にて町屋軒を並べたり。多くは皆旅館なり。松島の町は耕作の地少ければ農人にもあらず。又此地は瑞巌寺の下にて、殺生禁制の所なれば漁猟の者にもあらず。他の街道にあらざれば商家にもあらず。大かたは只松島の景色遊覧の人を宿して渡世とする事なり。瑞巌寺は町の西北にあり、禅宗にて大地也。開山は世に名高き真壁平四郎入道なり。此松島の町よりは景色見えがたし。景色は只舟行の間なり。扨兼て仙台の人の云しには、松島に遊ぶ人は必富山に登るべし。松島の景は富山に留れりと聞しによりて、又富山に至る。東北に当りて其道五十町有り。富山と云は観音の霊場にて、田村将軍の開山なりと云。高さ十丁ばかりもありて、此辺にては第一の高山なり。此山の絶頂の南辺に富春山大迎寺といふ寺あり。此寺の書院の庭より東南の方を見れば、松島の全景一望の中に備る。大抵東西二三里に南北二三里許(ばかり)とも見えて、八百八島連れる風景画に書る山、西湖の図に甚(はなはだ)似たり。遥に眼をめぐらせば、東洋限もなく、誠に天下第一の絶景筆紙に尽すべきにあらず。人によりて松島は俗景なりと云も、あまりに奇麗にして画図ごときゆゑにいふなるべし。余既に天下をめぐり尽して、名勝の地至らざる所も無きに、実に此松島の風景に比すべきもの又他所に見る事なし。此庭に一生をもをへたき心ちすれど、千里外の旅の身さてあるべきにあらねば、親しき人に別るゝ心地して寺を下り、又松島にかへり、松島より陸地をへて鹽竈の杉坂に帰る。松島と鹽竈の陸路は山を隔られて景色見えず。初思ひしは、舟にて行んは海上危くも有べし、殊に景色を見るには、歩こそ心静にしてよかるべけれど、既に陸路より松島に遊んとせしに、宿の主諌(いさめ)て、松島の景は舟行にあり、陸路よろしからず、まげて我詞に従ひ給へといふにぞ、舟買て遊べり。誠に宿の主のいひしごとく、陸路にては景地一ツも見るべからず、其上海上も泉水のごとくなれば、いかなる風雨の時といへども危き事は有べからず。松島に遊ぶ人は、是非とも舟行すべき事なり。又富山に登るべき事なり。
【東遊記について】 橘南谿著。「西遊記」は姉妹本。門人養軒とともに、天明四年(1784)の秋から天明六年の春にかけての旅の見聞録。その内容は、京都から、鎌倉、江戸、水戸、仙台、および仙台の周辺を巡った後、奥羽から北越、信州、越中、加賀、越前、近江を経て京都に戻るまでの足掛け三年にわたる旅。前編五巻は寛政七年(1795)刊、後編五巻は寛政九年刊。橘南谿は、宝暦三年(1753)年四月二十一日、伊勢国久居町に生まれる。医師、文人。本名宮川春暉。梅華仙史、略して梅仙と号す。

※本テキストの底本は、昭和十四年刊、改造文庫 第二部 第四百五篇 東遊記。
おくのほそ道 二十五二十七 [資料]
【松島関連】 正岡子規著「はて知らずの記」
松島関連の章段を抜粋
 小舟をやとふて塩釜の浦を発し松島の真中へと漕ぎ出づ、入海大方干潟になりて鳬(かも)の白う処々に下り立ちたる山の緑に副へてたゞならず。先づ第一に見ゆる小さき嶋こそ籬が嶋にはありけれ。此の嶋別にさせる事もなきも其名の聞えたるは塩釜に近き故なるべし。波の花もて結へると詠みたるも面白し。
   涼しさのこゝを扇のかなめかな
 山やうやうに開きて海遠く広がる。舟より見る嶋々縦に重なり横に続き遠近弁(わきま)へ難く其数も亦知り難し。一つと見し嶋の二つになり三つに分れ竪長しと思ひしも忽ちに幅狭く細く尖りたりと眺むる山の次第に円く平たく成り行くあり。我位置の移るを覚えず海の景色の活きて動くやうにぞ見ゆるなる。細くやさしく手のひらにも載せつべき嶋の波に洗はれて下痩せ上肥えたるが必ず一もと二もとの松倒まに危く這ひ出でたる中々に大きなるにまさりたりと見る見る外の嶋に隠れ行きたるいとあかね心地す。船頭のいふ、松島七十余嶋といひならはせども西は塩釜より東は金華山に至る海上十八里を合せ算ふれば八百八嶋ありとぞ伝ふなる。見給へやかなたに頂高く顕はれたるは金華山なり。こなたに聳えたる山嶺は富山観音なり。舳に当りたるは観月楼、楼の右にあるは五大堂、楼の後に見ゆる杉の林は瑞巌寺なり。瑞巌寺の左に高き建築は観瀾亭、稍々観瀾亭に続きたるが如きは雄嶋なり。いざ船の著(着)きたるにとうとう上り給へといふ。恍惚として観月楼に上る。
   涼しさの眼にちらつくや千松嶋
 障子明け放ちて眺むる風光眼にも尽きねど取りあへず観瀾亭に行く。此宿の門前数十歩の内なり。老婆出でゝ案内す。此家は伊達家の別荘にして建物は三百年の昔豊太閤が伏見桃山に築き給ひしを貞山公(政宗)に賜はり其後当家三代肯山公のこゝに移されし者なりとぞ。彫刻鈿鏤(でんる)の装飾無しと雖も古樸にして言ふべからざる雅致あり。数百の星霜を経て毫(いさかか)も腐朽の痕を見ず、伝へいふ此建築一柱一板尽(ことごと)く唐木を用ふと。蓋(けだ)し一世の豪奢なり。襖板戸の絵は皆狩野山楽の筆とかや、疎鬆(そしょう)にしてしかも濃厚の処あり。狩野家中の一派にやあらん。廊下に坐して見渡せば雄嶋五大堂を左右に控へ福浦嶋正面に当り其他の大嶋小嶼(嶋)相錯伍して各媚を呈し嬌を弄す。真に美観なり。嗚呼太閤貞山共に天下の豪傑にして松嶋は扶桑第一の好景なり。而して其人此亭中に此絶勝を賞するに及ばず。此景此亭に其人を容れしむ能はざりしは千古の遺憾と謂はまくのみ。然れども風光依然として天下に冠たる限りは涼風万斛(ばんこく)夏を忘るゝの頃明月一輪秋正に半なるの時両公の幽魂手を握って此処に遊観彷徨するや必せり。吾一介の窮措大固より槊を横へて千軍万馬を走らするの勇無く手を拱して一州一郡を治むるの能無しと雖も其意気昂然たる処に於て豈敢て人に譲らんや。況んや風月の権に至りては大明を驚かし羅馬を瞞するの手段を以て猶且つ之を一書生の手より奪ふべからざるをや。独り亭前に踞して左顧右眄(うこさべん)すれば両公彷彿として座間に微笑するを見る。而して傍人固より知らざるなり。

 瑞巌寺に詣づ。両側の杉林一町許り奥まりて山門あり苔蒸し蟲蝕して猶旧観を存す。古雅幽静太だ愛すべきの招提なり。門側俳句の碑林立すれども殆ど見るべきなし。唯
   春の夜の爪あがりなり瑞巌寺  乙二
の一句は古今を壓して独り卓然たるを覚ゆ。寺に入りて宝物を見る。雛僧案内して玉座のあと名家の書幅外邦の古物八房の梅樹等一々に指示す。唯たふとくのみ覚えて其名を記せず。
   政宗の眼もあらん土用干
 五大堂に詣づ。小き嶋二つを連ねて橋を渡したるなり。橋はをさ橋とてをさの如く橋板疎らに敷きて足もと危く俯けば水を覗ふべし。
   すゞしさや嶋から嶋へ橋づたい
日やうやう暮れなんとす。
   松嶋や雄嶋の浦のうらめぐり
     めぐれどあかず日ぞ暮れにける 
 旅亭(観月楼)に帰り欄干に凭(よ)りて見る。嶋いくつ松の木の生ひぬもなければ月さし上りて金波銀波に浮き出づる嶋々いづれか小蓬莱ならざらんと夜景先づ俤に立ちて独り更のたくるをのみ待つ。空は陰雲閉ぢて雨を催さんけしきなるに一夕立の過ぎなば中々に晴るゝ事もあらんかと空だのみして
   夕立の虹こしらへよ千松嶋
 闇は先づ遠き嶋山より隠してやうやう夜に入る。
   灯ちらちら人影涼し五大堂
 今や月出づらんと眼を見張るもをかしく、
   松嶋の闇を見て居るすゞみかな
 小舟二艘許り赤き提灯をともしつらねて小歌を歌ひ月琴を弾きなどしつゝそここゝと漕ぎまはるはかれも月を待つなるべし。
   ともし火の嶋かくれ行く涼み船
 うれしや海の面ほのかに照りて雲の隙に月の影こそ現れんとすなれ。
   波の音の闇もあやなし大海原
     月いづるかたに嶋見えわたる
   すゞしさのほのめく闇や千松島
 一句二句うなり出だす間もなく月は再び隠れて此あたりの雲の中とばかりそれだに覚束なし。あはれこよひ一夜こそ松嶋の月を見んと来しものを、
   心なき月は知らじな松嶋に
     こよひはかりの旅寝なりとも
 観月といふ楼の名を力に夢魂いづこにや迷ふらん。
 三十日朝雄嶋に遊ぶ。橋を渡りて細径ぐるりとまはれば石碑ひしひしと竝んで木立の如し。名高き坐禅堂はこれにやと思ふに傍に恠(あや)しき家は何やらん。
   すゞしさを裸にしたり坐禅堂
 かねて命じ置きたる小舟は旅宿の前に纜(ともづな)を維(つな)いで我を待つ。直ちに乗りうつれば一棹二棹はや五大堂をうしろにして福浦嶋眼の前に逼(せま)る。此嶋には竹薮ありて穴の無き竹を出だすとなり。岸づたひに楯が崎をめぐれば手樽村のこなたに著きぬ。賤しき童に案内せられて行く事半里嶮坂を攀(よ)づる事五六町にして富山の紫雲閣に達す。寺は山に倚りて構え庭二三間を隔てゝ其向ふ見下す限り即ち松嶋なり。実にや松嶋は富見にありとかや西は瑞巌寺につゞく山々より東はこがね花さく金華山まで大は宮戸桂の嶋々より小は名も知らぬ大岩小岩までいかで我眸中を逃るべき。うねうねと長きは蛇嶋にして平かにつくばひたるは亀嶋なり。月星嶋あれば蓬莱嶋あり。大黒嶋あれば毘沙門嶋あり、其外何嶋彼嶋杖のさき扇のはしにかたまつて十八里の海面八百八の嶋々は眼もくらむばかりになん。
   涼しさのこゝからも眼にあまりけり
   松嶋に扇かざしてながめけり
   海は扇松島は其絵なりけり
 去る年奥羽御御幸の折ふし鑾輿(らんよ)かしこくもこの寺に駐め給ひし玉座のあと竹もて囲ひたるに何とはなく尊くて飄亭餞別の句もこゝにぞ思ひ出だされける。山を下れば再び船に乗りて塩釜に向ふ。
【はて知らずの記について】 正岡子規(1867〜1902)著。松尾芭蕉の足跡を訪ねて、明治二十六年(1893)、七月十九日から八月二十日までの約一ヶ月間、東北地方を旅し、その紀行を句文で著したもの。同年、自社の「日本新聞」に連載された。

※本テキストの底本は、昭和四年、改造社刊、子規全集 第十巻。
※本文中の「観瀾亭」についてはこちらを参照。
※本文中の「飄亭」は、松山市生まれの歌人・俳人、五百木小平(いおきしょうへい)。
おくのほそ道 二十六 [資料]
【松島関連】 元禄六年四月二十九日付 芭蕉筆荊口宛書簡の抜粋
芭蕉と杉風、曽良、素堂、原安適との交流の一端を窺うために
(前略) 頃日は郭公盛二啼わたりて、人々吟詠、草扉に音信(おとずれ)侍しも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申伝へたれバ、猶亡人(桃印のこと)が旅懐草庵にしてうせたる事も、一入(ひとしお)悲しミの便りとなれば、ほとゝぎすの句も工案すまじき覚悟二候処、愁情なぐさめばやと、杉風・曾良、水辺之ほとゝぎすとて更二すゝむるにまかせて、與風存じ寄り候句、
   声横ふや歟
 ほとゝぎす声や横ふ水の上
と申候に、また同じ心二て、
 一声の江に横ふやほとゝぎす
「水光接天白露横江」の字、横句眼(「横」の字がこの句の眼目)なるべしや。ふたつの作いづれにやと推稿難定処(推稿<敲>定め難き処)、水沼氏(正しくは「水間氏」)沾徳と云もの吊(とぶらひ)来れるに、かれ物定めのはかせとなれと、両句評を乞。沾曰(いわく)、横江の句文二対シテ考之時ハ句量尤いミじかるべければ、江の字抜て水の上とくつろげたる句のにほひよろしき方二おもひ付べきの條申出候。兎角する内、山口素堂・原安適など詩歌のすきもの共入来りて、水上の究よろしき二定りて事やミぬ。させる事なき句ながら、白露横江と云奇文を味合て御覧可被下候。是又御懐しさのあまり書付申事二候。 以上
  卯月二十九日   はせを
 荊口雅老人
(前略) 近頃、ホトトギスが盛んに鳴き渡っていますので、人々によく詠まれています。芭蕉庵にも飛んできます。ホトトギスと言いますと、その昔、中国の蜀の帝が退位を強いられて、流浪の旅の内に命を落とし、その果てに魂がホトトギスになったという故事があります。身内の桃印も旅中この草庵で亡くなり、悲しみもひとしおです。そうしたことで、ホトトギスの句を作らずにおりましたところ、杉風と曽良が慰めにやってきまして、「水辺のホトトギス」で一ひねりいかがですかと申しますので、思いつくまま、次の二句を詠んでみました。
   声横ふや歟
 ほとゝぎす声や横ふ水の上
 一声の江に横ふやほとゝぎす
蘇東坡の詩句に「水光接天白露横江(水光天に接し、白露江に横たはる)」というのがありますが、ここでは「横たわる」というのが「句眼」かと存じます。そこで、上の二句となるのですが、どちらに定めようか案じておりましたところ、ちょうど、もの定めに長けた友人の沾徳が訪ねてきましたので、両句をみてもらいました。その評は、後者が、詩句の「横江(江に横たはる)」に寄りすぎて重々しくなっているのに対し、前者は、江を水の上としているので、寛いだ感じが出ていてよろしいとのことでした。そうこうする内に、詩歌で鳴らす山口素堂と原安適がやってきまして、結局、水の上の句に落ち着きました。たいした句ではありませんが、「白露横江」という秀でた詩句と合わせて味わってみてください。懐かしさにまかせ、お便り申し上げました。
【荊口について】 芭蕉門人で大垣藩藩士。宮崎氏。「おくのほそ道」の旅の終わりに、大垣で息子とともに芭蕉を出迎えた。享保二十年(1735)没。享年六十三歳。
おくのほそ道 二十九 [資料]
【平泉関連】 奥州高館沿革志
「(一)高館の位置および地形の変遷」の章段の全文
陸中国西磐井郡なる高館は在昔、藤原清衡以下四代の間、盤踞(ばんきょ)せし平泉の域内に在り、此地、吾妻鏡の所謂、衣河館の蹟にして、古来毛越寺に属し、源義経の最後の所なりといふを以て著はる。
平泉は西磐井郡の東北端に在る村名にして中尊寺、戸河内(へかない)、達谷(たっこく)、平泉の四大字(あざ)あり。高館の地は奥州の分水嶺、東に分岐して衣川、太田川(達谷川の下流なり)両流の分水界を為せる丘阜の尽頭にして、北上川に臨み断崖絶壁を為す。
高館は絶壁の上に在りて、東北、河を隔てゝ多和志根(吾妻鏡に、駒形嶺、三十余里之際、並
植桜樹とあるは、此山を指すなり)の連山に相対す。此連山は往時、安倍頼時が桜樹を植ゑし所にして、西行法師が東遊せし時、
     異木はすくなきやうに桜の限見えて
     花の咲けるを見て
  きゝもせずたは志ね山の桜花
      吉野の外にかゝるべしとは
と咏ぜしは即ち是れなり。北には衣川の流域ありて、前九年の役の瀬原の柵の址、白鳥八郎行任が居館の蹟、牛木長根(うのきながね。今「鵜木」に作る、「長根」は土言にして岡嶺の義なり)等見え、其長根の旁には、吾妻鏡に所謂、衣ノ関の蹟ありて、今は国道、鉄路、貫通せり。芭蕉翁の「康衡等が旧蹟は衣が関を隔てゝ南部口をさし堅め夷をふせぐと見えたり」といひし処なり(第一図[
資料]の衣ノ関を参照す)。西は国道、鉄路を隔てゝ、金鶏山を望み、中尊、毛越、両寺の丘陵に接し、南は柳ノ御所より伽羅御所を経て(両所ともに館蹟にして、今は字となれり)太田川の岸に通ず。
北上川は奥羽の大河なり。其源は岩手郡と二戸郡との界にて、奥羽大山脈と北上山系(地学者は又、閉伊山脈といふ)とが左右より相接せる中山といふ処なり。是より南流すること七十六里余にして牡鹿郡に至て海に入る。中世、蝦夷征討の軍は、概ね此河岸に由りて北進し、鎮守府も安倍氏、藤原氏の本拠も皆此流域に在りき。
此河は斯の如く大にして長きを以て、古来、河道の変遷せし所少からず。高館の地も其一にして、此水流に侵蝕せられ、年を逐ひて狭隘(きょうあい)となれり。今其変遷せる次第を考ふるに、
(1) 藤原氏の時代には高館の広袤(こうぼう)、幾許なりしか詳ならず。平泉志(一関、高平真藤編)高館の條下に、吾妻鏡、嘉楽館の條を引きて当時の地形を述べたる所あれども、吾妻鏡に其事項の記載なければ之を以て証とすべからず(奥羽観蹟聞老志、嘉楽館址の條も亦誤れり)。唯、平泉古図と称するもの、中尊寺の所蔵にて大日本史料第四編二に参考として掲げられたるものあり、又西磐井郡中里村の旧家大槻清一郎所蔵のもの、其外古図ありて、粗(ほぼ)、当時を想像するに足れり。今其信憑すべきものを取り、高館付近を写して、参考に資す。第一図、即ち是れなり。
(2) 高館の広袤の初めて書に見えたるは、今より二百四十有余年前の事なり。平泉旧蹟志(相原友直著にして、宝暦十年庚辰三月の跋あり、今より百四十年前なり)高館の條に、之を引きて「百年程以前の古城跡を記せるには、東西四百六十間余、南北百三十間余、高さ五十間とあり。前に云ふごとく、其頃は北上川、東山の麓を流れしが、今は此館の下を流る。昔の地図を以て見るに、百年以来の事なり。度々の洪水に崩れかけて今は甚だ狭し」といへり。東山とは北上河東の連山の総称にして多和志根の連山是れなり。此古城記なる四至の境界は詳ならず。
(3) 今より二百二十年前、即ち貞享元年の古城書上には高館、東西百四間、南北二十一間とあり。然るに今の高館は、高低三段を為せり。是れ其館上なる高地の平坦なる所のみを謂ひしものにて、全廓を謂ひしにはあらざるべし。又元禄十二年の地図(仙台藩、調役生江助内の製図)には、高館と柳ノ御所とを区別せず測量してあり。此図には北上河北に河原あり。是れ北上川が高館の地を囓(か)み去りし其跡に土砂の寄りたるものなり。此河原の畑地となりしは、元禄より安永に至る凡そ八十年の間に在り。其字を館裏(たてうら)といひ始めしも此頃よりの事なるべし。
(4) 今より百四十余年前、平泉旧蹟志の編製ありし頃、「衣川、北上川ともに、百年前の地図を以て考へ合すれば川筋甚だ昔に異れり」と、同書の衣川の條に見えたり。又北上川の條に「昔は平泉の東、長部山の麓を流れしが、今は数十町、西の方、高館の下を流る。百年以来の事なり(昔の地図を以て考之)昔の川跡は今は沼となれり。高館も此川流漸々館下に寄りて崩れかけたり」とあり。今又対岸なる東磐井郡長島村(長部と小島と合併せしもの)役場の地図に、北上河辺一帯の地を、水害地として表記せるを見れば、北上川の河道の変更せしを推知するに足るべし。
(5) 明治九年七月
主上東巡し給ひて、此高館に御駐輩遊ばされし時、其断崖の上に、柵を結ひたる事ありき。然るに今は僅に三十年の間に、柵を結ひたる所より十間余の地、復た北上川に侵蝕せられたり。今平泉古図、及び元禄十二年の地図を参照して高館の地域を査定するに、東西三百六十間(東、柳御所、境界壕より西、国道線に至る)南北八十間(南、元壕より北、断崖に至る、狭所五十間、広所百十間にして、平均八十間なり)。高さ三十間(北方断崖の間数)なり。これは国有、民有の区別なく単に往時の館址のみを測れり。而して対岸なる館裏は反別六拾六町二反七畝五歩にして、其外畦畔河原等あり。
如上、述べたる所によれば、北上川は、昔は多和志根の山麓を流れ、而して衣川の下流はこれと並行し太田川に会して北上川に入りしに、北上の河道漸次に変じて、衣川の河道に遷りて、其水、遂に高館の地を侵蝕するに至りしなり。これがために、古へ広大なりし高館の地域も、次第に狭隘となりし事、明白なりとす。抑、高館を構成する地盤を検るに、今の高館の背面、北上川沿岸にて断崖を為せる所は其地盤、土壌、頁石、砂、褐炭、子持岩等より構成せられたり。是等は皆水の侵蝕作用及び霜の雨+毎 (音/バイ 訓/かび)爛作用によりて破碎崩壊せられ易きものなり。従って往時は此地広大なりしが漸次に河水に侵蝕せられ今日の如く狭少の地となりしこと、疑ひなきのみならず、今後も次第に破碎せられ崩壊せられて、遂に高館の地は、一塊土とならんことも亦知るべからず。
【奥州高館沿革志について】 寺崎清賢著。大槻文彦校閲。明治四十一年仙台英華堂刊。

※本文中の多和志根山、長部山は、束稲山のこと。
おくのほそ道 二十九 [資料]
【平泉-兼房関連】 義経記
「判官北国落の事」からの抜粋
去程に二月二日まだ夜深きに、今出川を出でんとし給ふに、西の妻戸に人の音しける。いかなるものなるらんと御覧ずれば、北の方の御乳人(めのと。守役)十郎権頭(ごんかみ)兼房、白き直垂に褐の袴きて、白髪まじりの髻引き乱し、頭巾打著(うちき。打ち着)、年寄り候とも是非とも御供申し候はん」とて参りたり。北の方、
北の方「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、
兼房「相伝の御主(代々仕えてきたご主人)を妻子に思ひかへ参らすべきか」
と、申しもあへず涙にむせびけり。六十三に成りけるまゝに、よき丈な山伏(北国落ちの際の仮姿)にてぞありける。兼房涙を押へて申しけるは、
十郎(兼房)「君は清和天皇の御末、北の方は久我殿の姫君ぞかし。唯仮初に花紅葉の御遊び、御物詣なりとも、ようの御車などこそ召さるべきに、はるばる東(あずま)の路に、徒跣(かちはだし)にて出立ち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲し」と涙を流しければ、残の山伏共も、
山伏「理なり、誠に世には神も仏もましまさぬか」
とて各々浄衣の袖をぞしぼりける。
「判官御自害の事」の章段の抜粋と「兼房が最後の事」の章段の全文
判官殿(源義経のこと)はまだ御息の通ひけるにや、御目を御覧じあけさせ給ひて、
判官「北の方はいかに」と宣(のたま)へば、
兼房「はや御自害御側に御入れ候ふ」と申せば、御側を探らせ給ひて、
判官「是は誰」と仰せければ、
兼房「若君にて渡らせ給ふ」と申せば、御手をさし渡させ給ひて、北の方に取付き給ひぬ。兼房いとゞあはれぞまさりける。
判官「早々城に火をかけよ」と計(ばかり)を最期の御言葉にて、こときれ果てさせ給ひけり。
(以上「判官御自害の事」)
十郎権の頭(兼房)、今は中々に心にかゝる事なしと独言し、かねて構(こしら)へたる事なれば、走りまはりて火をかけ、折節西風吹き、猛火は程なく御殿に付きけり。御自害の御上には、遣戸格子をはづし置き、御跡の見えぬ様にはこしらへける。兼房は火焔にむせび、東西くれてありけるが、君を守護し申さんとて、最期の軍少くしたりとや思ひけん。鎧を脱ぎすて、腹巻の上帯しめ固め、妻戸よりつと出でて見れば、其日の大将長崎太郎兄弟、壺の内(家の周囲の垣の内)に控へけり。敵自害の上は、何事か有るべきとて油断しけるを、兼房いひけるは、
兼房「唐土天竺を知らず、我朝に於て、御内の御座所に、馬に乗りながら控ふべき者こそ覚えね。かくいふ者をば誰とか思ふ、清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿の御舎弟に九郎太夫判官殿の御内に十郎権の頭兼房、元は久我大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊口+會 (音/カイ)(はんかい。高祖劉邦に仕え戦功を立てた漢初の武将)を欺く度々の高名其隠なし、いざや手並を見せん、法も知らぬ奴原かな」と云ふこそ久しけれ(云うや否や)、長崎太郎が馬手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鐙(あぶみ。足を踏み掛ける馬具)のみづをがね(鐙の頂部にある金具)馬のおりぼね(肋骨<ろっこつ>)五枚かけて切付けたり。主も馬も足をたてかへさず倒れけり。おしかゝり首を掻かんとせし所に、兄を討たせじと、弟の次郎、兼房に打つてかゝる。兼房走り違ふやうにして、馬より引落し、左の脇にかい挟みて、
兼房「一人越ゆべき死出の山、供して越えよや」とて、炎の中に飛び入りけり。兼房思へば恐しやひとへに鬼神の振舞なり。是はもとより期したる事なり。長崎の次郎は、勤賞にあづかり御恩蒙り、朝恩に誇るべきと思ひしに、心ならず捕はれて、焼死するこそ無慚(むざん)なれ。
【「義経記」の出典】 井上雄一郎著「参考 義経記詳解」。昭和九年大同館書店発行。

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