| 松尾芭蕉の旅 おくのほそ道 | ||||
| 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース |
| おくのほそ道 三十五 | ||||
| 出羽三山の章段 |
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| 六月三日、羽黒山に登る。 | 六月三日、羽黒山に登る。 | |||||
| 図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。 | 図司左吉という者を訪ね、その案内で羽黒山の別当代会覚阿闍梨にお目にかかる。南谷の別院に宿泊したが、阿闍梨は、思いやりの心で、懇(ねんご)ろにもてなしてくださった。 | |||||
| 四日、本坊にをゐて誹諧興行。 | 四日、本坊において俳諧を興行する。 | |||||
| _有難や雪をかほらす南谷 | この霊山の谷あいから、雪の香の南風が吹き寄せています。旅に疲労した我が身にとっては、この上なく尊く有難いことです。 | |||||
| 五日、権現に詣。当山開闢能除大師はいづれの代の人と云事をしらず。 | 五日、羽黒権現に参詣する。羽黒山を開山した能除大師は、どのような時代の人かは知らない。 | |||||
| 延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。「出羽」といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍とやらん。 | 延喜式に「羽州里山の神社」とある。書きうつすときに、「黒」の字を「里山」としてしまったのだろうか。また、「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と言うのだろうか。この国を出羽と言うのは、鳥の羽を国の貢物として朝廷に献上したから、と風土記に書いてあるということである。 | |||||
| 月山・湯殿を合て三山とす。 | 羽黒山に、月山と湯殿山を合わせて三山と称している。 | |||||
| 当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし。 | この寺は、武蔵国江戸の東叡山に属して、天台宗の止観の教えが月の光のように行き渡り、円頓融通の教えも合わせ灯って、僧坊が棟を並べて建つほどに隆盛している。修験者は修行に励んでいて、人は、こうした霊山霊地のごりやくを貴びながらも、そのあらたかさに恐れを抱いている。この繁栄はいつまでも続くと思われ、実に立派なお山と言うことができるだろう。 | |||||
| 八日、月山にのぼる。 | 八日、月山に登る。 | |||||
| 木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こゞえて頂上に至れば、日没て月顕る。 | 木綿注連を首に掛け、宝冠に頭を包み、強力という者に先導されて、雲や霧が立ち込めて冷え冷えとした中を、氷雪を踏んで八里ばかり登れば、まさに日月の通り道にある雲の関所に入ってしまうかと思いながら、息絶え絶えに、冷え切った身体で頂上に到着すると、折から日が暮れて、既に出ていた月が鮮明となった。 | |||||
| 笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば湯殿に下る。 | 笹を敷き、まとめた篠竹を枕にして、横になって夜が明けるのを待つ。朝日が出て雲が消えたので、湯殿山の方へ下った。 | |||||
| 谷の傍に鍛治小屋と云有。此国の鍛治、霊水を撰て爰に潔斎して劔を打、終月山と銘を切て世に賞せらる。彼龍泉に剣を淬とかや。干将・莫耶のむかしをしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。 | 谷の傍らに鍛冶小屋というのがある。この国の刀鍛冶、月山という人が、霊験のある水をここに選び、身を清めて剣を打ち、ついに「月山」と銘を刻んで世にもてはやされた。これは、中国のかの龍泉の水で鍛錬したというのに通じるものだろうか。その昔、名剣を作り上げた干将と妻の莫耶の故事を慕うものである。熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られたことである。 | |||||
| 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。行尊僧正の哥の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。 | 岩に腰かけてしばらく休んでいると、三尺ばかりの桜が、つぼみを半分ほど開きかけていた。降り積もった雪の下に埋まりながら、春を忘れずに花を開こうとする遅ざくらの花の心は実に健気である。「炎天の梅花」が、ここに花の香を匂わしているようであり、行尊僧正のおもむき深い歌も思い出されて、いっそうしみじみとした思いに駈られた。 | |||||
| 惣而此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとゞめて記さず。 | 一般に、湯殿山の細かいことは、修行者の決まりとして、他人に話すことが禁じられている。従って、これ以上は筆を止めて記さないことにする。 | |||||
| 坊に帰れば、阿闍利の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。 | 南谷の宿坊に帰ったのち、阿闍梨の求めに応じて、三山順礼の発句を短冊に書いた。 | |||||
| _涼しさやほの三か月の羽黒山[資料] | 日の落ちた羽黒山に佇み、西の空を眺めれば、はるかな山のあたりに三日月が出ているよ。たちこめる山気の中に見る月は、神々しくさえ感じられることである。 | |||||
| _雲の峯幾つ崩て月の山[資料] | 昼間の陽射しの中で、猛々しく起立していた雲の峰はいつしか崩れ、今は、薄明かりに照らされた月の山が嫋(たお)やかに横たえているばかりであるよ。 | |||||
| _語られぬ湯殿にぬらす袂かな | いにしえより恋の山と聞こえた湯殿の里に分け入れば、語らず聞かずの幽谷の奥に尊き神秘を拝し、袂を濡らしたことであるよ。 | |||||
| _湯殿山銭ふむ道の泪かな 曽良 | 湯殿山の霊域では、落ちたものを拾い上げることが禁じられている。こうした訳からだろうか、参道は、お賽銭を散り敷いたような有様であるよ。これを踏みつつお参りに上がると、かたじけない思いで涙がこぼれるのである。 | |||||
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前 35 出羽三山 |
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[語 釈] |
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鶴岡藩士図士家の生まれ。本名、近藤左吉。山伏の摺り衣を染める染屋を営む傍らで俳諧をし、呂丸(ろがん)[資料]または露丸と号す。当時、羽黒俳壇の中核にあり、大石田の高野一栄とも面識があった。芭蕉が南谷滞在中に伝授した俳諧の教えを「聞書七日草」に著し、また、元禄五年(1692)深川の芭蕉庵を訪ねた折、芭蕉から「三日月日記」の稿本を貰い受けるなど、芭蕉との関わりを密にしたが、旅の途次の元禄六年二月、京都で病に倒れ、客死した。「当帰より哀は塚のすみれ草」は、呂丸に手向けた芭蕉の追悼句[資料]。 |
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京都の人で法名和合院照寂。第五十代別当執行の天宥が伊豆流罪に遭ってから、別当は、本山の東叡山寛永寺が兼務した。芭蕉当時、本職にあったのは東叡山の大円覚院公雄で、会覚阿闍梨は、その院代として羽黒山に派遣されていた。会覚は、芭蕉と交流をもった四年後の元禄六年八月に羽黒山を去り、美濃国谷汲の華蔵院の末寺地蔵院に転じた。 |
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芭蕉当時の本坊は、二の坂先の宝前院若王寺。その別院として機能していたのが南谷の玄陽院で、宿泊施設も兼ねていた。南谷は、芭蕉来山の二十余年前、天宥が五年の歳月をかけて築造したもので、別当寺紫苑寺の大伽藍は、人目を驚かすほどに壮大だったと伝えられる。玄陽院は、紫苑寺が寛文十二年(1672)十月に焼失したことから、その替わりに山頂から移築された伽藍。現在、南谷にはただ一つの建物もなく、礎石のみが残っている。玄陽院を「別院」とするのは正しくないとする解説書もあるが、出羽三山神社自らが「別当寺(本坊)の別院」(「出羽三山歴史」)としている。 |
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「憐憫の情」は、情をかたむける心、思いやりの心。「あるじ(饗)す」は「客をもてなす」意で、「あるじもうけ(饗設)す」の略。「らる」は、尊敬、受身の両意にとれるが、ここでは尊敬にて「思いやりの心で、懇(ねんご)ろにもてなしてくださった」と解する。 |
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当時の本坊は二の坂先の宝前院若王寺。俳諧は、芭蕉、会覚、呂丸、曽良、釣雪、円入、珠妙、梨水による八吟歌仙「有難や」の巻[資料]を指す。随行日記によれば、六月四、五、九日の三度を経て満尾している。 |
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ここでは、本地垂迹説(神は衆生救済のため姿を変えて現れた仏であるとする説)のもとの羽黒権現で、羽黒山神の本地である観世音菩薩。 |
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「当山開闢」は、「羽黒山を開いた人」の意。「開闢(かいびゃく)」は「開山」と同意。 「能除大師」は、上の「羽黒山」に記した蜂子皇子のこと。「能除」の名は、「能(よ)く諸人の病苦を除いた」所以と伝わる。 |
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「延喜式」は、醍醐天皇の時、藤原時平、忠平らが編纂した全五十巻の書で、朝廷の年中儀式や諸国の定例などを記したもの。 「羽州里山の神社」については、延喜式にこの記述は無く、曽良の延喜式神名帳抄録においても、出羽神社については「出羽国九座 大二 小七」の部の「田川郡」に「伊 |
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「風土記」は、和銅六年(713)の元明天皇の詔により、諸国で、地名の由来、土地、人民、産物などを記して編纂された地誌。後世の風土記物と区別して古風土記とも。出羽国の古風土記は現存せず、本書に芭蕉が記すような内容があったかは不明だが、天治三年(1126年)三月廿四日付、藤原清衡の「中尊寺落慶供養願文」に「出羽・陸奥之土俗、(中略)羽毛、歯、皮之贄(にえ。朝廷などに貢ぐ土地の産物)」とあり、また、蓑笠庵梨一の「奥細道菅菰抄」に「今モ此国ヨリ、鷲ノ羽ナドヲ多ク出ス」とあることから、羽毛は、古くから当地の特産物であったことが知られる。 |
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「月山」は、「月の山」の呼称で下の歌などに詠まれた歌枕。アスピーテ(楯状)火山の山で標高1984m。山頂に月山神社が鎮座する。祭神は、天照大神の弟神の月読命。神仏混淆期にあっては月山権現と言い、本地を阿弥陀如来とした。神仏分離後は月山神社となるが、「御室」には、今も阿弥陀如来の石像が安置されている。 月の山くもらぬかげはいつとなく 麓の里に住む人ぞ知る 加賀 (「夫木和歌集」) 「湯殿」は湯殿山(1504m)で、「恋の山」として下の歌などに詠まれた歌枕。月山の南西方向に隆起する山で、月山との隔たりは直線距離で約4km。湯殿山神社の本宮は、湯殿山と品倉山との谷底に鎮座する。境内には古来より社殿が設けられず、お湯が湧き出す茶褐色の大岩をご神体としている。 恋の山しげき小笹の露わけて 入りそむるよりぬるる袖かな 藤原顕仲 (「新勅撰集」) 「三山」は出羽三山で、羽黒山、月山、湯殿山の総称。古くは、月山、羽黒山、葉山の総称で、湯殿山をその奥の院としたが、室町末期、葉山に代わって湯殿山が三山に名を連ねた。 |
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「武江」は武蔵国江戸、「東叡」は東叡山で東の比叡山を意図する。東京上野の寛永寺の山号。羽黒山は、第五十代別当執行天宥の時、真言宗から天台宗に改め、東叡山の末寺となった。 「天台止観」は「天台宗の止観の教え」。「止観」は、雑念を止め、観念思惟することで、主に禅宗で行う座禅にあたる。「天台止観の月明らかに」は、「天台宗の止観の教えが月の光のように隈なく行き渡り」ほどの意。 |
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「円頓」は「円満な精神で速やかに悟りを開くこと」、「融通」は「滞りなく仏の教えに通じること」を意味する。 |
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「験効」は「効験」のことで、願い事のごりやく。 |
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羽黒権現に詣でたのが本文、日記ともに五日で、山の習いとしてはその翌日に月山に参ることになるので、月山登拝は随行日記「六日 天気吉。登山。(中略)申ノ上尅、月山ニ至」とある通り、六月六日(新暦七月二十二日)が妥当である。 |
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「木綿しめ」は「木綿注連[資料]」。不浄なものの侵入を防ぐため首に掛けて胸に垂らすもの。白い紙をひも状に縒(よ)り、これを編んで作る。古くは、白い布を材料にしたという。 「宝冠」は白装束の修験者に見る頭巾で、長い布を、両脇を角状にして頭に巻いたもの。 |
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出羽三山の門前集落・手向には、かつて、妻帯の衆徒三百六十坊が居住し、参詣者や行者・修験者のための宿坊を営み、また先達(山案内者)を勤めていた。芭蕉と曽良を先導した「強力」は、こうした中から選ばれた人物とも見られる。「奥細道菅菰抄」には、「強力は、修験の弟子、笈など負せて従はしむるもの。即チ登山の案内先達なり」とある。 |
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「雲霧」は、山腹にこもるか、または斜面を這い上がっては消えていく雲や霧[資料]について触れたもの。ただし、雲と霧は同じ物で、自分から離れてあれば雲、自分がその中に居れば霧と呼ぶ。「山気」は、冷え冷えとした空気。 芭蕉が月山に登った新暦七月二十二日ごろは、まだ山肌にかなりの雪を残す時期で、「氷雪を踏て」は、こうした情況下の登山の有様を言ったもの。 |
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「日月行道の雲関に入」は、「太陽や月の通り道にある雲の関所に入り込む」意。登り詰めて、雲のある大空と溶け合う段階、すなわち月山の峰に達したことを暗示していると見られる。 「更に」は「全く、本当に、まさに」、「あやしむ」は「疑わしく思う」で、上は、「まさに、太陽や月の通り道にある雲の関所に入り込むのではないかと疑わしく思いながら」の意。 |
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随行日記では、頂上に達した時間を「申ノ上尅(午後三時半ごろ)」としている。一方、本文では、上の通り「頂上に着いたところ、折から日が暮れて月が顕れた」ことにしているので、到着の時間は日没近くということになる。これについては、芭蕉が月山に登った日の六日月は、おおよそ、昼前に月が出て、日が没するにつれて南の空高くに鮮明となることから、芭蕉は、月山への到着を、次第に「月顕る」情景とからめて叙することを希望し、このため、到着時刻を三時間ばかり繰り下げることにしたものと推測される。 |
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随行日記によれば、芭蕉が泊ったのは「角兵衛小ヤ」。よって野宿とする虚構がなければ「笹を鋪、篠を枕として」は、小屋の内部の様子。 「角兵衛小ヤ」は、当時山頂に七軒あった小屋の1つで、七軒の内訳は、五軒が宿泊用、残りは酒屋と菓子屋だったという。荻原井泉水(1884〜1976)は、八合目小屋に泊まった時の様子を「石を積んだ上を、蒲鉾のやうな形に、苫を以て蔽ふたものに過ぎなかった。中には土の上にむしろが一枚づゝ奥深く敷いてあるらしいが、真暗だった」と「奥の細道を尋ねて」に書いている。かなり年数を隔ててはいるが、芭蕉が体験した「笹を鋪、篠を枕として」という仮寝も、これに近い趣だったのだろう。 |
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頂きから西へ300mほど下ったところにあった小屋。その名は、鎌倉時代の刀鍛冶鬼王丸を祖とする名匠「月山」に由来するとされ、「月山」は、月山麓近くの谷地や寒河江を鍛刀の地とし、室町時代に最も繁栄したという。「月山」が、実際に鍛冶小屋に居住して鍛刀したかは不明。「奥細道菅菰抄」に「月山ノ鍛冶小屋ハ、今其業ヲナス者ナク、唯名ノミ遺リテ、道者ノ舎リトナルノミ」とある。 |
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「龍泉」は、中国湖南省にあったと伝えられる泉で、この水は、刀を鍛えるのに適したという。 「淬(にら)ぐ」は、鉄を鍛えるため、赤く熱して水に入れる意。焼きを入れる意。 |
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「干将」は、中国春秋時代の刀鍛冶で、「莫耶」はその妻。干将は、呉王に作刀を命じられたとき、妻の髪を炉に入れ、龍泉の水で鍛えて雌雄の名剣二振りを作り、雄剣に「干将」、雌剣に「莫耶」と名付けたという。 |
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「道」は、ここでは「専門の技」の意。 「堪能」は、技に優れ熟達していること(人)。 「執」は、物事にこだわること。執着。 「道に堪能の執あさからぬ事」は、「熟達した技を身につけるには、それに深くこだわることが大切と知られる」ほどの意。 |
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「三尺」は約90cm。この「桜」は、中部地方以北の亜高山帯から高山帯に咲くタカネザクラ(ミネザクラ)。新葉とともに五月から七月ごろ、月山では六月から七月ごろに花をつける。本来は高木だが、高所においては横に枝を広げ低木状となる。 |
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「遅ざくら(遅咲きの桜)」は、上で「三尺ばかりなる桜」と表した桜。 「わりなし(理無し)」は、ここでは「健気(けなげ)だ、殊勝だ」の意。 「春を忘れずに花を開こうとする遅ざくらの花の心は実に健気である」と、遅ざくらの生命力を称えた文。 |
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「禅林句集」(坤巻)の中の「雪裏芭蕉摩詰画。炎天梅蘂簡斎詩」による。「雪裏芭蕉摩詰画」は、雪の中の芭蕉の株は摩詰(唐代の詩人・画家)が描いたもの、「炎天梅蘂簡斎詩」は、炎天の梅花は簡斎(宋代の詩人)が詩で詠んだものといった意で、「雪裏芭蕉」と「炎天梅蘂(花)」は、いずれも実際には見られないものであることから、禅宗ではこれを鍛錬によって心眼で見えるものとし、一般には珍しいものの例えとされる。 |
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「行尊僧正」は、平安末期の天台宗の高僧で歌人。「哥(歌)」は、行尊が大峰で修行の時に詠んだ次の歌を指す。 大峰にて思ひかけず桜の咲きたるを見て もろともにあはれと思へ山ざくら 花より外に知る人もなし (「金葉和歌集」) |
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「惣而」は、「全体に、一般に」の意。 「行者の法式」は、行者(修行者)のおきて、決まり。 「他言する事を禁ず」は、湯殿山の古来よりの戒律「語るなかれ、聞くなかれ」に触れたもの。 |
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月山と湯殿山の巡礼から帰ったのちに、会覚阿闍梨の求めに応えて三山三句の短冊[資料]を書き贈ったことに触れたもの。その日にちは、六月八日または九日と見られる。 |
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「おくのほそ道」のテキストについて
本テキストは、俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
および、FLASHムービー「 おくのほそ道を行く」の副読本
としてLAP Edc. SOFTが制作したものです。
ただし、本章段を含むムービーはまだ制作されていません。
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