野ざらし紀行  [資料集]
俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース
野ざらし紀行  [資料]
【「西行谷関連」】 荻原井泉水著「芭蕉を尋ねて」(昭和三年 春秋社)より
神宮文庫で古書に読みふけりつつ時をすごしたので、西行谷を尋ねようとして立出た時はもう暮近くて、正面に見える朝熊山の頂だけが夕日に染まってゐた。其前方に、既に日光を失ってゐる暗い山を岩井田山といひ、其裾が襞褶をなして、小さな谷を作ってゐる所の一つが西行谷なのであった。谷は西を向いてゐるので、まだ幾らか明るい。全く山の懐といふ感じの所なので、庵居するには落付きがあって好ささうである。前面は冬田を隔て、浦田町を越して、皷岳(其一部が圓山)に対し、少し出ると右に貝吹山を見ることも出来る。眺望も悪くはない。谷には松が多く、梅の木も数本あり、薄がむら立って枯れてゐる。今は家が二軒、其一軒は近頃建ったものださうで、竿にむつきが掛け干してある。あたりまへの事だけれども、是を西行庵だとして幻想すると、此対照は微笑を禁じえない。西行は初め二見の安養山にゐたが、其後爰に移ったといふ伝説なのである。
    西行谷のふもとに流あり、をんなどもの芋あらふを見るに
   芋あらふ女西行ならば歌よまん
其芋洗ふ女の現在から、遠く西行の昔を幻想に感じて、芭蕉が微笑したらう其気持ちもよく解るのである。さて、「流」といって、谷からちろちろと水が流れ出てはゐるけれども、芋を洗ふ程の小川ではない。女共が揃って洗ってゐたとすると、畑も近くにあったのだらうから、其は五十鈴川であったかもしれぬ、五十鈴川は西行谷からごく近い所なのである。
【「芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」の句関連】 「西行撰集抄」より
過ぬる長月の廿日あまりのころ、江口と云所をすぎ侍りしに、家は南北の岸にさしはさみ、こころは旅人の往来の舟をおもふ遊女のありさま、いと哀にはかなき物かなと、見たてリしほどに、冬を待えぬむらしぐれのさら(まま)暮し侍りしかば、けしかる賤がふせ屋にたちより、はれま待つまの宿をかり侍しに、あるじの遊女ゆるす景色の侍らざりしかば、なにとなく、
  世中を厭ふまでこそ難からめ仮のやどりを惜む君かな
と詠みて侍しかば、あるじの遊女、うちわびて、
  家をいづる人とし見れば仮のやどに心とむなと思ふばかりぞ
とかへして、いそぎ内にいれ侍りき、ただ、しぐれのほどしばしの宿とせんとこそ思ひ侍りしに、此歌のおもしろさに、一夜のふしどとし侍りき。
[大意] 西行が、少しの間の雨宿りと思って、宿主の遊女(江口の君)に宿を貸してくれるように頼んだが、応じてくれそうもないので、俗世間を離れ出家するということになれば難しいだろうが、宿を貸すぐらいなら貸し惜しみなどしなくても、と詠むと、遊女は、あなたがきっと出家している人とお見受けしたので、仮りそめの宿になどに心を留めなければいいと考えていたところです、と返歌した。
芭蕉は西行谷のほとりで「芋洗う女」たちを眺め、「西行ならば、きっと芋洗う女たちに歌を詠みかけるだろう」と一句捻った。山口素堂は、「野ざらし紀行」の序で「西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば、答もあらぬぞ口をしき。」と書いている。
【「蘭の香や蝶の翅に薫物す」の句関連】 服部土芳編「三冊子」の「赤雙子」より
この句は、ある茶店の片はらに道休らひしてたたずみありしを、老翁の見知侍るにや、内に請じて、家女料紙持出て句を願ふ。其女の曰いはく、我は此家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍る也。先のあるじも鶴といふ遊女を妻とし、其頃灘波の宗因此処にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請たると也。例(ためし)おかしき事までいひ出て、しきりに望み侍ればいなみがたくて、かの難波の老人の句に、「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」とかいふ句を前書にして此句遺し侍るとの物がたり也。其名を蝶といへば、かく言ひ侍ると也、老人の例にまかせて書捨たり。さのみのことも侍らざりなしがたき事也と云り。
[大意] 西行谷からの帰りに立ち寄った茶店で、芭蕉は、主(あるじ)の妻に家の中に案内され、料紙に発句を書いてくれるように頼まれた。女がそのわけを言うには。
私は、この家で遊女をしていたのだけれども、今はその主の妻になっています。私の前の主も「鶴」という遊女を妻にしていました。そのところに、難波の宗因がやってきたとき、「鶴」が句を願ったところ、しきりに頼むものだから、宗因が「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」を前書きに一句詠み与えのです。
「葛の葉のおつるがうらみ夜の霜」の句の意は、「霜降る夜中に葛の葉がおつる<おちる>のは、おつる<お鶴>の恨みによるものか」で、「葛の葉」は、恨みを題材にした浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の女主人公の名でもある。
芭蕉は、茶店の主の妻「蝶」に、「鶴」の話を持ち出して発句を請われ、「蘭の香や蝶の翅(「つばさ」と読ます)に薫物す」の句を詠み与えた。「蝶の翅(昆虫の「はね」)から芳しい香りがしている。薫物をするときに似て、翅を休めている蘭の花の香りが移ったように」ほどの意。ちなみに、「笈日記」所収の本句に「美人図」の前書がある。
【「蔦植て竹四五本のあらし哉」の句関連】 五味蟹守編「杖酒」より
杉本氏正英ハ好士利休の古道に遊びて、竹の庵あはれに住なし、みたりよたり膝入(いれ)ぬべくおぼゆ。庭もいとものふり、石あらあらしく据ゑて、ささやかなる草木揃ひたる中に、ただ竹に蔦のかかりたるぞ目にとまりける。
  
蔦植ゑて竹四五本のあらしかな 翁
[大意] 杉本正英氏は、風流人利休の古道(茶道)に遊び、庭に竹を植えて趣き深い庵暮らしをし、庵は、三人四人は入れるほどと見受けられる。庭もたいへん古びた感じで、庭石は、おおざっぱに据えられ、草木がこぢんまりと揃えて植えられている。そんな中で、ただ、秋色に染まった蔦の竹にからむ姿のみが、強く私の目に止まったことである。そこで、一句詠んで、
庭先を占めている竹四、五本が興趣を増して美しく、蔦の葉を彩った秋の風も、竹の緑葉は、見向きもせずに吹き抜けていくばかりである。
本句文から、「野ざらし紀行」本文中の「閑人」が、杉本正英なる人物であることが分る。支考編「笈日記」(元禄八年奥書)には、本句の前書に「廬牧亭」とある。
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【竹の内滞在中のことを綴った句文】 烏酔編「夏炉一路」より
大和国長尾の里と云処ハ、さすがに都遠きにあらず、山里ながら山里に似ず。主心有さまにて、老たる母のおハしけるを、其家のかたへにしつらひ、庭前に木草のをかしげなるを植置て、巌めづらかに据ゑなし、手づから枝を撓(たは)め石を撫ては、此山蓬莱の島ともなりね、生薬(いくくすり)とりてんよ、と老母に仕へ、慰めなんどせし実(まこと)有けり。家貧して孝をあらハすこそ聞なれ、貧しからずして孝を尽す、古人も難(かたき)事になんいひける。
  
冬知らぬ宿や籾する音霰
                      芭蕉庵桃青 在印
[大意] 大和国長尾の里という所は、さすがに都まで遠くはないので、山里でありながら山里といった趣きはない。訪ねた家の主は、心掛けのよい人と見えて、老いた母のために、家の傍らに別棟を築き、庭には草や木を趣き深く植え、そこへ大きな庭石をたいそう見栄え良く据えている。また、木の枝は手で形良くたわめ、庭石をいつくしんでは、この築山が(中国の伝説にある)不老不死の蓬莱の島になってほしいと願い、叶ったら不老長生の薬を採りたいものよと誠実に老母に仕え、心を満たしてあげている。家が貧しい中で孝行をするというのは聞くけれども、貧しくなくて孝を尽くすというのは古人もたいそう難しいことと言っている。そこで一句詠んで、
庭先では、もみする音が冬のあられのように聞こえているが、この家の主人(「宿」に「家の主人」の意あり)は、寒い心根など少しもない人であるよ。
[説明] 竹内街道沿いにある長尾は葛城郡當麻町の内で、竹の内地区の東隣に位置する。上の句文は、竹の内滞在中、東隣の長尾に出向いた折のことを綴ったもの。
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【芭蕉が吉野で止宿した坊について】 石河積翠園「芭蕉句選年考」より
按ずるに、此句(碪打て我に聞かせよや坊が妻)紀行には麓とは無し、素堂の序に麓とあり、続虚栗に、よし野の奥とあり、奥ならんには、町屋を坊といへるとも思はれず。麓ならばさも有るか。芳野(ママ)には喜蔵院、南陽院などいへる妻帯の寺あり。あつみ山歌仙に「此世の末はみよし野に入る 不玉」といふ句に、「朝つとめ妻帯寺の鐘の声 曽良」と附けたり。然れば吉野に妻帯の寺あれば、町を坊といへりとも定め難くや。
上で素堂の序とあるのは、「野ざらし紀行」山口素堂序の一節「ふもとの坊にやどりて坊が妻に砧をこのミけん」を指す。
「あつみ山歌仙」は、「おくのほそ道」の旅で、六月酒田で巻かれたもの。曽良の俳諧書留に「出羽酒田、伊東玄順亭ニ而」、「雪まろげ」所収のものに「出羽酒田の湊伊東不玉亭にて」の前書がある。
【「西上人(西行上人)の草の庵の跡/とくとくの泉関連」】 荻原井泉水著「芭蕉を尋ねて」より
西行閑居の跡といふ所は、吉野山の町(旅館店舗の並んでゐる所)から、まだ二十余丁も上である。私は、宿の男衆に案内を頼んで、朝から出掛けた。先づ、竹林院に、利休の趣向といふ庭園を一見し、子守社に古風な神殿の作りを鑑賞し、此地で「あいぜんさん」と称へる金峰神社(奥の院)の物さびた、簡素な社に詣でてから、其社の右手につづく大峰山の道を二丁ばかり行くと、参拝の行者の為に出来てゐるらしい掛茶屋と拝堂とがあって、そこから右手に岨路がある。此辺、杉が一体に植林してある。二十年から五十年位のものである。桜もちらほらとある。所謂「奥の一目千本」といふのは此岨路を行った所といふが、やはり其路を三丁ばかり行った所に、西行庵の趾はある。今も小さな庵室が建ってゐて、朽ちるに任してある。然し是はもちろん、近頃、旧蹟をあらはす為にこしらえたもので、恐らくは、初めから、如何にも西行が住んだらしく、侘びしげに、且つ古く見えるやうに、考へて新築したものであらう。荒削りの柱、荒塗りの壁、入口は出来てゐるが戸などは初めから作らぬらしい。中は三畳より広く、四畳半より狭い、畳を敷くつもりもないのだから、いい加減な訳である。西行がここに居る間、汲んでゐたといふ清水、即ち彼の詠歌にある
  浅くともよしや又くむ人もあらじ
     我にことたる山の井の水
  とくとくと落つる岩間の苔清水
     汲み干すほどもなき住居かな
此歌から「苔清水」とも「とくとくの清水」とも称せられる清水は、庵趾から半丁許り隔てた処にある。
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【「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」の句関連】 (1) 夏目成美編「随斎諧話」より
ある人の説に、狂句とおかれしは翁の謙辞なり。後に門弟子の、狂句の二字をとり捨て、集などに出せしは面白き事なりといへり。案るに此説しかりとしがたし。まづ句を作るに、人に対するにもあらで謙遜の詞をおくべき謂なし。是はその頃の格調にて、此外にも、「御廟年を経て」「牡丹蘂ふかく」「芭蕉野分して」「芋あらふ女」「あら何ともなや」「猿をきく人」「晦日月なし」「風髭を吹いて」のたぐひあまたあり、此句も狂句の二字ありて尤も風味あり。門人などの、師の句を歿後みだりにあらため削らんこと、甚だいはれなし。文字あまりたりとて、たまたま此句のみに附て憶説をなすは心得がたし、外にも是等の体裁あるをしらぬ故にや。
[大意]「狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」の句の「狂句」は、自句を謙遜して付したものとして後に、削られたりしたが、此句は「狂句」の二字があって尤も風味がある。こうした詠み方は当時の芭蕉の格調であり、この句についてだけ字余り云々と言って削ったのは、「御廟年を経て」や「牡丹蘂ふかく」など句にも同じ体裁があるのを知らないためだ。
本句は、「狂句」の二字の捉え方について、句を説明するものとする「句外説」と初句の一部とする「句内説」に二分される。夏目成美は後者。成美(1749〜1816)は、浅草蔵前の札差屋。名は包嘉、通称井筒屋八郎右衛門(五代目)、号は随齊・贅亭・四山道人など。完來・道彦・巣兆と共に江戸の四大家と称された俳人で、小林一茶の庇護者。
(2) 「冬の日」五歌仙の巻頭部分
笠は長途の雨にほころび、紙衣はとまりとまりの嵐にもめたり、侘尽したるわび人、我さへあはれに覚えける。むかし狂歌の才士、此国にたどりし事を不図おもひ出て申侍る。
  
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
   たそやとばしるかさの山茶花 野水
  有明の主水に酒屋つくらせて  荷兮
   かしらの露をふるふあかむま 重五
  朝鮮の細りすゝきのにほひなき 杜国
   日のちりちりに野に米を苅  正平
    (以下省略)
芭蕉七部集の一つに数えられる「冬の日」は、「野ざらし紀行」の旅で名古屋に立ち寄った際に、名古屋の門人と巻いた五歌仙・追加の表六句を、山本荷兮が編者となってまとめ、貞享二年に刊行したもの。
巻頭の前書と発句の意は次の通り。
笠は、長旅で受けた雨の為にほころび、紙衣は、折々に受けた嵐の為に皺々(しわしわ)になっている。侘を極めた侘人、我ながら哀れに思えることである。むかし、狂歌に長けた人がこの尾張の国にやってきたことをふと思い出したので、発句を詠んで、
木枯らしに吹かれ、あちらへこちらへと、狂句を吟じながら漂泊を続ける私の身の上は、かの竹斎と似ていることであるよ。

  
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