| 松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行 | ||||
| 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース |
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| 野ざらし紀行 十三 | ||||
| 大津、辛崎、水口 |
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| 大津に至る道、山路を越えて | 京都から大津へ至る、逢坂山越えの道を歩いて | |||||
| _山路来て何やらゆかしすみれ草 | どのくらい山道を歩いたかな。一休みと思って足もとを見ると、すみれ草が咲いている。ひっそりたたずむ姿に、つい心が重なって、どことなく懐(ゆか)しさを覚えてしまうことであるよ。 | |||||
| 湖水の展望 | 湖水の展望 | |||||
| _辛崎の松は花より朧にて | うす明かりが琵琶湖の水を照らしている。その中に、幽かに映る辛崎の松は、朧月夜の花よりも更に風情があっていいものだ。 | |||||
| 水口にて、二十年を経て故人に逢ふ | 水口にて、二十年を経て旧友に逢う | |||||
| _命二つの中に生たる桜哉 | お互いに、今日のこの日まで、よく命長らえて生きてきたことよ。今が盛りと咲いている、この桜のように。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
逢坂山越えの道。逢坂山の山中に、平安京遷都後に「三関」の一つに数えられた逢坂関があった。 |
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芭蕉は、「野ざらし紀行」の旅の最終段階を迎えた三月二十七日、熱田の白鳥山法持寺に参詣し、この折に、芭蕉、叩端、桐葉を連衆とする三吟歌仙が催された。 法持寺は、天長年間(824〜834)弘法大師空海が熱田神宮に参詣した折、大和武尊を慕って小社を建て、自ら本尊延命地蔵菩薩を彫って祭ったのに始まる。文明期(1469〜1487)になって熱田・円通寺二世明谷義光和尚によって曹洞宗に再興され、熱田神宮大宮司千秋家代々の菩提所となった。また、桐葉の菩提寺でもある。 当日巻かれた歌仙により、「野ざらし紀行」に所収する本句の初案が、次の発句に見る句形であったことが窺われる。 何とはなしに何やら床し菫草 芭蕉 編笠敷きて蛙聴居る 叩端 田螺割る賤の童の暖かに 桐葉 公家に宿貸す竹の中道 芭蕉 (以下略) (三吟歌仙 「熱田三歌仙」) 法持寺の由緒書きに、「何とはなしに何やら床し菫草」の句に因む記事があり、これによれば、林桐葉の次女「佐与」が幼くして亡くなったことから、芭蕉は、佐与が元気だったころを思い出し、道端の菫(すみれ)草にその姿を重ねて、可憐だった佐与を懐かしんで詠句したものという。この話は、文献では散見しないが、法持寺に纏わる人々や地元の俳士の間で代々受け継がれてきたものと思われる。 このことから、「山路来て」の句は、もともと桐葉の娘を哀悼するものであったが、これを、「大津に至る道、山路を越え」る折に詠んだものとして、初句を「山路来て」に変え、道の端にひっそりと根を下ろすスミレに、つい己の生き様を重ね合わせ、「何やらゆかし」と詠懐する句に改案した、ということになるのだろう。 改案の時期については、芭蕉の貞亨二年五月十二日付千那宛書簡に「山路来て」の句形が見られるので、江戸に帰着して二十日ほどの間に、決定稿が上がったことになる。 貴墨辱拝見、御無事之由珍重奉 (あなたの手紙をかたじけなく拝見し、ご無事で何よりと存じます。御宅 <又は大津>に逗留の間、めずらしく、ゆっくりお話をして過ごすことが できました。) 一、愚句其元に而之句 (愚句ですが、この句は、御宅<この「其元」は「大津」なら特に記 す必要がないことから「千那亭」>からの眺めを詠んだものです。) 辛崎の松は花より朧にて と御覚可 (といった句形にしましたのでご承知ください。) 山路来て何やらゆかしすみれ草 (以下省略) その後、芭蕉は、俳人で歌人でもある師北村季吟の長子湖春から「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧なりといへども、歌学なきの誤なり」(去来抄)と、本句を謗られている。これに対し去来は「山路に菫をよみたる証歌(証拠として取り上げる歌)多し。湖春は地下(ちげ。宮中に仕えない一般の人)の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」(同)と抗し、支考は、自著「葛の松原」(元禄五年刊)の中で、大江匡房の「箱根山薄むらさきのつぼすみれ二しほ三しほ誰か染めけむ」(堀河百首)を証歌として取り上げ、「山路に菫とつづけ申されしを、ある人おぼつかなしと難じけるは、有房卿(正しくは匡房)の『はこねやま薄むらさきのつぼすみれ』といへる歌を、不幸にして見ざりけむ人の心こそ、おぼつかなけれ」と抗している。 |
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享保十年刊の千梅編「鎌倉海道」に、この句の初案にあたる「辛崎の松や小町が身のおぼろ」の句が採録されている。本句は、大津に迎えてくれた千那に対する挨拶句。 辛崎の松や小町が身のおぼろ 芭蕉 山は桜をしほる春雨 千那 (発句・脇。「鎌倉海道」) 上に掲げた千那宛書簡の「辛崎の松は花より朧にて と御覚可 以上のことから、初案の句が本福寺で詠まれ、のちに本句に改案されたと考えるのが妥当と考えられるが、其角編「雑談集」(元禄四年刊行)所収の本句に「大津尚白亭にて」の前書があり、また、尚白編「忘梅」に「名にし、辛崎の松は花より、と聞えしも、此家にての発句にして、其短冊を珍蔵せり」と記されてある。 「辛崎の松」は歌枕で、室町時代に、比良の暮雪、堅田の落雁、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、石山の秋月、瀬田の夕照、矢橋の帰帆とともに「唐崎の夜雨」として「近江八景」に選ばれた。現在の松は三代目。芭蕉が見た二代目の松は、天正十九年に植え継がれてから百年ほど経過した樹勢で、その百五十年ばかり後に、歌川広重が、枝先を湖水に浸らすほどの大松を浮世絵に描き、更にその名を広めた。 芭蕉が、本福寺から琵琶湖の南方を眺めたとすると、「辛崎の松」は北方約十キロほどの彼方にあり、また、もう一つの近江八景「三井の晩鐘」として知られ、本句内の「花」や千那の句の「桜」の地と認められる三井寺観音堂まではそれ以上の距離があって、両者ともに視認することは到底できない。したがって、「辛崎の松は花より朧にて」の「辛崎の松」も「花」も、本福寺に向う途中の景を拠り所にした心象風景ということになる。 心象風景なら、時間は昼であっても夜であっても構わないが、対象の情景が「唐崎の夜雨」であり「朧」であることを考慮すると、芭蕉の心は夜にあったとみていいだろう。こうしたことを踏まえると、「うす明かりが琵琶湖の水を照らしている。その中に、幽かに映る辛崎の松は、朧月夜の花よりも更に風情があっていいものだ」ほどの意となる。 |
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旧友の意で、芭蕉と同じ伊賀上野出身の服部土芳のこと。1657〜1630。芭蕉は、東海道五十番目の宿、水口(みなくち)宿で、同郷の土芳と二十年ぶりに再会し、土芳は、この後に芭蕉の門人となった。 土芳の「芭蕉翁全伝」に「是は水口にて土芳に玉(賜)る句也。土芳此年は播磨に有て、帰る頃は、はや此里を出られ侍る。なほ跡をしたひ、水口越に京へ登るに、横田川にて思はず行逢ひ水口の駅に一夜昔を語し夜の事也。明けの日より中村柳軒と云医のもとに招れて又此の句を出し、二十年来の旧友二人挨拶したりと笑れ侍る。蓮花寺と云寺に折ふし伊賀の大仙寺の嶽淵あり。各昼夜四、五日談じて発句あり歌仙有。又多賀某と云老医、翁に旧き因有。もてはやし有。これよりなごやへ出られし也」とある。 |
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許六と去来が元禄十、十一年に交わした書簡の集「俳諧問答」(天明五年刊)に、本句についての記述「是『命二つの』と字あまりなり、予ばせを庵にて借用の草枕(野ざらし紀行)にたしかにのノ字入あり、のノ字入て見れば夜の明たるが如し」がある。 |
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