| 松尾芭蕉の旅 野ざらし紀行 | ||||
| 俳聖 松尾芭蕉・生涯データベース |
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| 野ざらし紀行 旅の行程 |
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| 資料 | 資料 | 十五 | 十五 | 十四 | 十三 | 十三 | 十三 | 十二 | 十一 | 十 | 九 | 九 | 九 | 九 | 八 | 八 | 七 | 六 | 六 | 五 | 四 | 四 | 三 | 三 | 二 | 一 | 一 | ||||
| 行程地図 | 芭蕉発句集 | 旅の終り | 甲斐山中 | 熱田 | 水口 | 辛崎 |
大津 | 京都 | 奈良 | 伊賀上野 | 熱田 | 名古屋 | 熱田 | 桑名 | 大垣 | 不破の関 | 吉野山 | 二上山 | 竹内 | 伊賀上野 | 西行谷 | 伊勢神宮 | 小夜の中山 | 大井川 | 富士川 | 箱根 | 旅立ち | ||||
| 〃 | 〃 | 夏 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 春 | 新年 | 〃 | 〃 | 〃 | 冬 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 秋 | ||||||
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| 野ざらし紀行 一 | ||||
| 旅立ち、箱根の関越え、旅の同伴者 |
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| 千里に旅立て、路粮を包まず。「三更月下無何に入」と云けむ昔の人の杖にすがりて、貞亨甲子秋八月、江上の破屋を出づる程、風の声そぞろ寒気也。 | 荘子は、千里の旅をする者は、三ヶ月も前から食料を用意すると言っているが、わたしは道中食を持たずに、ただ「夜更けの月明かりのもと、俗世間を離れ仙境に入る」という古人の言葉をよりどころとして、貞享元年の秋八月、いよいよ隅田川のあばら屋を旅立つ。荒れ野を通り抜けていく風の音を聞くと、つい、薄ら寒い思いに駈られることである。 | |||||
| _野ざらしを心に風のしむ身かな | 道々行き倒れ、頭骨を野辺にさらそうともと、覚悟しての旅ではあるが、風の冷たさが、むやみにこたえる我が身であるよ。 | |||||
| _秋十年却て江戸を指故郷 | 江戸住まいもかれこれ十年になる。故郷に向かう旅ながら、かえって江戸が恋しくなってしまうとは。 | |||||
| 関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。 | 箱根の関所を越える日は雨降りで、山はみな雲に隠れてしまっている。 | |||||
| _霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き | 今日は霧が深くかかって、草庵から幾たびもながめたあの富士山が見られない。けれども、こうして霧の中に聳える富士を思い描くというのも一興であるよ。 | |||||
| 何某千里と云けるは、此度道の助けとなりて、万いたはり、心を尽し侍る。常に莫逆の交深く、朋友信有哉、此人。 | 何某千里という人が、この度、道中の助けとなってくれて、あれこれといたわり、真心を尽くしてくれている。わたしとはふだんから交わりが深い人で、友に対して信義を守ってくれる方ですよ、この人は。 | |||||
| 深川や芭蕉を富士に預行 千里 | とうとう、深川が遠くに思われるところまでやって来たなあ。芭蕉庵での翁の生活を、みんな霊峰富士に預かってもらって、旅を続けることにしよう。 | |||||
[語 釈] |
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荘子の逍遥遊篇に「適 「路粮(路糧)」は道中の食料。 |
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中国の禅僧広聞の句に「路不 「三更」は、日没から日出までを五等分した中の三つ目の時刻を指す。午後十一時ごろから午前三時ごろ。「無何」は、「無何有(むかう)」と同義。自然のままで何のこしらえもしないこと。 |
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こうし、かっし。十干(甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸)と十二支(子、丑、寅、卯、・・・)とを組合せた干支(えと)の第一番目。貞享甲子は貞享元年。貞享二年の干支は乙丑。 |
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髑髏(どくろ)、しゃれこうべ。 |
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ばくげき、ばくぎゃく。極めて親密な間柄。 |
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ほうゆうしんあるかな。 「論語」の「学而」に「曽子曰、吾日三省 孟子の説いた五倫にも。「父子親有、君臣義有、夫婦別有、長幼序有、朋友信有」。父子親(しん)アリ、君臣義アリ、夫婦別アリ、長幼序アリ、朋友信アリ。 |
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| 野ざらし紀行 二 | ||||
| 富士川のほとりの捨て子 |
| 次 前 上 下 |
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| 富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず、露計の命待間と捨て置けむ。 | 富士川のほとりを旅していると、三歳ばかりの捨て子が、悲しそうに泣いている。親は、この子を川の早瀬に投げ込んで、自分たちだけ浮世の波を乗り越えて生きてはいけない、わずかでもこの子の命がある間はこのままにして、との思いで、人知れず捨て置いて立ち去ったのだろう。 | |||||
| 小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂より喰物投げて通るに、 | 小萩に吹きつける冷たい秋の風に、今夜のうちに命を散らしてしまうのか、明日にもしおれてしまうのかと哀れに思いながら、たもとから食べ物を取り出して投げ与え、通り過ぎる時に、一句を吟じて、 | |||||
| _猿を聞人捨子に秋の風いかに | 猿の声に悲愁を聞く詩人たちは、この冷え冷えとした秋風の中に捨てられた子のあわれみならば、どのように詠むことであろうか。 | |||||
| いかにぞや、汝父に悪まれたる歟(か)、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け。 | 坊や(江戸時代は男児、女児のいずれにも用いた)、一体どうしたというのだ。父親に憎まれたのか、母親に嫌われたのか。いや、そうではあるまい。父親がお前を憎んだのでも、母親が嫌ったわけでもない。これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
山梨県と静岡県を貫流して駿河湾に注ぐ。最上川、球磨川と共に日本三急流の一つ。歌枕。 |
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「野ざらし紀行」の山口素堂序に「富士川の捨子は惻隠(あわれみ)の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとはおもはざらまし。見にかふる物ぞなかりきみどり子はやらむかたなくかなしけれども(金葉和歌集の「大路に子を捨てて侍りける押し含みに、書き付けて侍りける 身にまさる物なかりけり緑児は、やらんかたなくかなしけれども」を引用。序で「(身に)まさる」を「かふる」と誤る)と、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや」とある。 |
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ここでの「猿」は、「断腸」の語源となっている「人間に我が子をさらわれた母猿が深く悲しみ、死後、母親の腹を割いてみると腸が千切れ千切れになっていた」という中国の故事中の猿を言い、この母猿の切ない鳴き声は、古来多くの漢詩文中で取り上げられている。 「猿を聞人(猿を聞く人)」は、「猿の声に悲愁を聞く詩人たち」の意。杜甫の「秋興八首」に「聴 |
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| 野ざらし紀行 三 | ||||
| 大井川越え、小夜の中山 |
| 次 前 上 下 |
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| 大井川越る日は終日雨降ければ、 | 大井川を越える日、終日雨降りなので、一句詠んで、 | |||||
| 秋の日の雨江戸に指折らん大井川 千里 | この雨降りの秋の日に、江戸の人々は日にちを指折りかぞえ、今日は大井川あたり、川止めにあってはいないかなどと、みんなで話しているのではないかな。 | |||||
| 馬上吟 | 馬上で詠んだ句 | |||||
| _道のべの木槿は馬に食はれけり | むくげの花を馬の上から眺めていると、あれよという間に、その花を馬が食べてしまったよ。そうでなくても短命な花であるのに。 | |||||
| 廿日余の月かすかに見えて、山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚。 | 未明の空に二十日月がかすかに見えて、山の麓あたりがたいそう暗い中を、鞭を垂れたまま馬の足取りにまかせ、数里を旅してきたが、いまだ、鳥の鳴き声が聞こえてこない。杜牧が「早行」の詩に詠んだあの夢見心地のまま、馬に揺られ小夜の中山まで来たところで、やにわに目が覚めた。 | |||||
| _馬に寝て残夢月遠し茶の煙 | 馬上でうとうとしながら旅を続けて、やにわに夢見心地から覚めると、有明の月が遠くに見え、もう、村里に朝茶を炊く煙がたなびているよ。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
静岡県中部を流れ、駿河湾に注ぐ川。戦国(元亀以降)、江戸期は、洪水で流れが変わった場合も、この川をもって駿河と遠江(とおとうみ)の境とした。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川は、江戸時代、架橋や渡船が許されず、川越えは、肩車や輦台(れんだい)で行われ、日常的な降雨でも川止めとなるなど、東海道一番の難所と言われた。 |
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「早行」は唐の詩人杜牧の詩。これに「残夢(見残した夢、または、目が覚めても残る夢見心地の気分)」を詠み入れた「垂 |
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さや(さよ)のなかやま。歌枕。佐夜の中山とも。静岡県掛川市と金谷町との境にある峠道。峠からつづら折の坂を下ると、江戸から二十五番目の日坂(にっさか)宿に至った。芭蕉が馬上で見た「茶の煙」立つ集落は、この日坂の宿。 |
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たちまちおどろく。「驚く」に「はっとして目が覚める」の意味がある。 |
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| 野ざらし紀行 四 | ||||
| 伊勢神宮参詣、西行谷、茶店にて |
| 次 前 上 下 |
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| 松葉屋風瀑が伊勢に有けるを尋音信て、十日計足をとどむ。 | 六月に江戸で別れたばかりの松葉屋風瀑を伊勢に訪ねて、十日ばかり足をとどめた。 | |||||
| 腰間に寸鉄を帯びず、襟に一嚢をかけて、手に十八の玉を携ふ。僧に似て塵有、俗に似て髪なし。 | 私の姿は、腰に脇差を身につけず、襟に頭陀袋をかけ、手に十八珠の数珠を持ち、僧形の身なりはしているが俗人であり、俗人に似て剃髪をしている、といったぐあいである。 | |||||
| 我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事を許さず。 | 僧ではないのだが、(神官は)私を僧侶の類と見て、(内宮の)神前に入って参詣することを許さない。 | |||||
| 暮て外宮に詣侍りけるに、一ノ華表の陰ほの暗く、御燈処々に見えて、また上もなき峰の松風身にしむ計深き心を起して、 | 一の鳥居の背後はほの暗く、御燈が所々に見えて、西行が「また上もなき峰の松風」と詠んだ御山から吹き寄せる松風をしみじみと感じ、深い信仰心を起して、次の一句を詠んだ。 | |||||
| _三十日月なし千年の杉を抱あらし | 天空に三十日の月は見えず、神路山から下りてくる風は、樹齢千年ほどの神杉(かむすぎ)を抱くように吹き撓(たわ)めている。 | |||||
| 西行谷[資料]の麓に流あり。女どもの芋洗ふを見るに、 | 西行谷の麓に流がある。女たちの芋洗うのを見て、 | |||||
| _芋洗ふ女西行ならば歌よまむ[資料] | 西行ならば、きっと芋洗う女たちに歌を詠み掛けるだろう。 | |||||
| 其日の帰途、ある茶店に立寄けるに、てふと云ける女、「吾が名に発句せよ」と云て、白き絹出しけるに書付侍る。 | その日の帰り道、ある茶店に立ち寄ったところ、てふという女が、「わたしの名を詠み込んだ発句を作ってください」と言って白い絹布を差し出したので、一句書き付けた。 | |||||
| _蘭の香や蝶の翅に薫物す[資料] | 芳(かぐわ)しい蝶の翅よ。蘭の香が、薫物をしたように、うつり香となって。 | |||||
| 閑人の茅舎を訪ひて | 閑居する人の草庵を訪ねて | |||||
| _蔦植て竹四五本のあらし哉[資料] | 庭先を占めている竹四、五本が興趣を増して美しく、蔦の葉を彩った秋の風も、竹の緑葉は、見向きもせずに吹き抜けていくばかりである。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
まつばやふうばく。蕉門。伊勢国、宇治山田大世古町の人で、伊勢神宮の年寄師職家。江戸の出店で諸俳人と交流。「一楼賦」(貞享二年刊)、「丙寅紀行」(貞享三年刊)を編著。 芭蕉は「野ざらし紀行」に旅立つ二ヶ月ほど前の貞享元年六月中旬、江戸から伊勢に帰る風瀑に「風瀑を餞別す 忘れずば佐夜の中山にて涼め(歌枕の佐夜の中山の峠を越える時、当地を詠んだ古歌を思い出しましたら、一涼みしながら一句捻ってみなさい)」の餞別句を送っている。 |
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小さい刃物。小刀、脇差。 |
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珠数が十八個の数珠。この他、三十六個、百八個などの数珠もある。禅宗の携帯用数珠は十八珠のもの。 |
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ちり。浄土に対して俗世間、僧に対して俗人。 |
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ふと。「浮図」とも。仏寺、僧侶の意。 |
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濱森太郎著「松尾芭蕉の1200日 第三章 野ざらし紀行画巻の試み」(三重学術出版会)に、「内宮参詣を志し、神官に境内で禁足された。剃髪し、手に数珠、首に袋を懸けた主人公の装束が、俳諧師よりも乞食僧に近かったからである。(中略)そこで彼は、仕方なく六キロ余りの道のりを引き返すと、日暮れ時に外宮の一の鳥居付近にたどり着いた」とある。 |
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かひょう。「花表」とも。神社の鳥居。中国では城郭や官庁、墓所の入口に建つ門をいう。 |
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西行の歌「深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風」(千載集)からの引用。本歌の詞書に「高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山(かみじやま)ともうす。大日如来の御垂迹(仏や菩薩が仮の姿で現れること)と思ひてよみ侍りける」とある。歌中の「この上もなき」は、大日如来の垂迹とする神路山を称えたもの。 |
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閑居する人の意。五味蟹守編「杖酒」では、その名を「杉本正英」、支考編「笈日記」(元禄八年奥書)の前書では「廬牧」と記す。 |
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| 野ざらし紀行 五 | ||||
| 伊賀上野に帰る |
| 次 前 上 下 |
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| 長月の初、故郷に帰りて、北堂の萱草も霜枯果て、今は跡だになし。何事も昔に替りて、同胞の鬢白く、眉皺寄て、只命有て、とのみ云て言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪拝めよ、浦島の子が玉手箱、汝が眉もやや老たり、としばらく泣きて、 | 九月の初めに故郷へ帰ると、既に母は亡くなっていて、母の堂に見られた萱草も霜に枯れ果て、今ではその跡すら残っていない。何事も昔と変わってしまってい、身内の者の髪は白くなり、眉に皺が寄り、ただ、「お互いに存命で何より」とのみ言い合って言葉はなく、兄は、母の白髪を納めた守り袋をほどいて「母を拝みなさい。この髪を見ると、浦島太郎が突然白髪になったように思われるだろう。お前の眉毛も大部白くなったなあ」と言い、あとは二人でしばらく泣き、 | |||||
| _手にとらば消ん涙ぞ熱き秋の霜 | 白髪に変わっていた母の遺髪を手にとると、熱い涙がこぼれ落ち、秋の霜にも似た形見が、消えてしまうように思えるよ。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
「長月」は陰暦九月のこと。土芳の「芭蕉翁全伝」に「九月八日の夜尾張の駅より此所に移、四、五日の間」とある。 |
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「北堂」は、中国で、家の北に建つ母親が住まいとした堂。転じて「母」。「萱草(けんそう)」は忘れ草。「詩経」に「焉得 「北堂の萱草も霜枯果て(母の住まいに植えてあった忘れ草が霜枯れ果てた)」は、「母の死」の意を内包する。芭蕉の母は、「野ざらし紀行」の旅の前年(天保三年)、六月二十日に死去。上野農人町の愛染院に葬られている。戒名「梅月妙松信女」。 |
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同じ民族の意もあるが、ここでは兄弟姉妹の意。 |
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万葉集などに見る浦島太郎のこと。 |
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| 野ざらし紀行 六 | ||||
| 千里の故郷を訪ねて |
| 大和の国に行脚して、葛下の郡竹の内と云処は彼千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む。[資料] | 大和の国に行脚して、葛下の郡の竹の内というところは、かの千里の故郷なので、幾日か滞在して足を休めた。 | |||||
| _綿弓や琵琶に慰む竹の奥 | 繰綿(くりわた)を打つ弓の音が、竹薮の奥にひっそりと佇むこの家に、琵琶語りのように鳴り響いているよ。 | |||||
| 二上山 |
二上山の当麻寺に詣でて境内の松を見ると、およそ千年の歳月も経ているように思われる。この大きさは、荘子の「大イサ牛を隠す」ほどと言っていいだろう。木に喜怒哀楽の情が無いといっても、仏の縁に導かれて斧で切り倒されることはなかったのであるから、この木にとっては幸いなことであり、尊いことだ。 | |||||
| _僧朝顔幾死返る法の松 | 僧は、朝顔が何度も死と生を繰り返すように、代々引き継がれて変わったが、仏法の教えは、千年も生き続ける松のように、いつまでも変わることはない。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
「蕉影余韻」所収の「野ざらし紀行」(真蹟)に「葛城の下の郡」とあることから「葛下(かつげ)」はこれの略と見られている。現在の奈良県北葛城郡。「竹の内」は、現在の當麻町の竹内地区。芭蕉は、同行の千里の案内で竹の内を訪ね、千里の実家近くの興善庵に寄居した。 |
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わたゆみ。「綿打ち弓」ともいう。種を取り除いただけの繰綿(くりわた)をはじき打って精製するための道具。打つときに琵琶を弾いたような音が出る。 |
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雄岳(517m)と雌岳(474m)が2こぶの稜線を描く二上山は、大和・河内の境目にあたり、奈良盆地の西を南北に走る金剛連峰の一角をなす。 |
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當麻寺(たいまでら)。芭蕉は、竹の内に滞在中、當麻寺に参詣。當麻寺は、用明天皇の皇子麻呂子王が、兄聖徳太子の教えにより、河内の国に建てた万法蔵院禅林寺にはじまり、その後、麻呂子王の孫當麻国見により現在地に移された。寺歴1300年を越す大和の名刹。 |
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「大い」は「大き」のイ穏便で、「大いさ牛を隠す」は、「『大き』さが牛を隠す(ほど)」の意。荘子の「人間世篇」に「見 |
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ふきんのつみ。斧(おの。斤)で切り倒される罪。荘子の逍遥遊篇に「不 |
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僧と朝顔、仏法と松を対比させて詠んだもの。「和漢朗詠集」に松と槿花(むくげの花、または朝顔の花)を対比させた「松樹千年終是朽。槿花一日自為 |
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| 野ざらし紀行 七 | ||||
| 吉野山、西行の面影を慕って |
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| 独吉野の奥に辿りけるに、まことに山深く、白雲峰に重り、煙雨谷を埋んで、山賤(やまがつ)の家処々に小さく、西に木を伐音東に響き、院々の鐘の声は心の底にこたふ。 | 独りで吉野の奥に、道に迷いながら入っていくと、まことに山深く、白雲が峰に重なり、霧雨が谷をすきまなく覆い、木こりの家がところどころに小さく見え、谷の西側で木を伐る音が、東側に反響し、院々で打ち鳴らす鐘の音は、心の底に深く感じられる。 | |||||
| 昔よりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌に隠る。いでや唐土(もろこし)の廬山といはむも、またむべならずや。 | 昔から、この山に入り、俗世間を離れた人の多くは詩を作り、歌を詠んで心を専らにし、世事を忘れようとした。いやまさに、吉野を唐土(中国)の廬山と言いたくなるのも、もっともなことではないだろうか。 | |||||
| ある坊[資料]に一夜を借りて | ある宿坊に一夜を借りて | |||||
| _碪打て我に聞かせよや坊が妻 | 宿坊の妻よ、秋の夜のしじまに、哀愁を帯びた、かの碪(きぬた。砧)を打つ音を響かせてはくれまいか。 | |||||
| 西上人の草の庵の跡[資料]は、奥の院より右の方二町計分け入ほど、柴人の通ふ道のみわづかに有て、嶮しき谷を隔てたる、いとたふとし。 | 西行上人の草の庵の跡は、奥の院から右の方に二町(約二百メートル)ばかり分け入ったところに、柴刈りの人が通る道だけが、かろうじて有り、険しい谷を隔てて聳える奥山の様子は、大変尊いものである。 | |||||
| 彼とくとくの清水[資料]は昔に変はらずと見えて、今もとくとくと雫落ける。 | かのとくとくの清水は、昔と変わらないと見えて、今もとくとくと雫が落ちている。 | |||||
| _露とくとく試みに浮世すすがばや | とくとくの泉が、昔と変わらずに雫を落とし続けている。ためしに、この清水で浮世のけがれをすすいでみたいものであるよ。 | |||||
| 若これ扶桑に伯夷あらば、必口をすすがん。もし是許由に告ば、耳を洗はむ。 | もし、わが国に伯夷がいたら、清い水なのだから、必ずや口に含みすすいだろうし、許由に教えたなら、きっとこの水で耳を洗い清めたことだろう。 | |||||
| 山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む。 | 山を登り、坂を下ると、既に秋の日は傾いてしまっている。所々の名所旧跡を見残したのだが、何はともあれ、後醍醐天皇の墓を拝むことにする。 | |||||
| _御廟年経て忍は何をしのぶ草 | 吉野の山中で、風雨を忍びながら、三百五十年の歳月を暮らした後醍醐天皇のお墓の、その傍らに、ほどよくしのぶ草が育っているよ。 | |||||
| [語 釈] | ||||||
この「いで」は、感動を表して「いやもう、実に」。「や」は強意。 |
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ろざん。中国江西省の北部にある。景勝かつ仏教霊跡の地。中国山水詩の原点とも言うべき名山で、数々の名僧文人が幽栖した山として知られる。 |
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宜、諾。「うべ」とも。もっともなこと。 |
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きぬたうちて。「碪(砧)を打つ」は、植物繊維で織った布を柔らかくするために、布を、砧と称する木製の台(古くは石製)の上にのせて木槌で打つ作業のことで、これを「衣を打つ」、「擣衣(とうい)」ともいう。別には、絹織の布を打って光沢のある衣に仕立てる作業や、洗濯後の乾燥でこわばった布を打って柔らかくする作業も同様に言う。 特に、夜のしじまに哀愁の帯びた音が響く「砧(碪)打ち」の音は、李白の「子夜呉歌」中の「万戸打 |
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周の武王が殷を討つという不義を諌め、それが容れられなかったことから周の粟を食するのを潔しとせず、首陽山(中国陝西省の山)に隠れて蕨で飢えをしのいだが、終には餓死したとされる高士。 |
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中国の伝説上の帝、尭から聞かされた皇帝の座を譲るという話に、不本意なことを聞いて汚れたとして、耳を潁川(えんせん。中国河南省の川)で水を洗ったとされる。節義を曲げなかった高潔の士として知られる。 |
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吉野山にある山後醍醐天皇(鎌倉末期・南北朝時代)の墓。後醍醐天皇の即位は1318年。1331年、倒幕の計画が漏れ隠岐に流されるが1333年に脱出。同年に幕府が滅び、京都に帰還。同じ年、尊氏離反で吉野(南朝)に移り尊氏(北朝)と対立。尊氏が征夷大将軍になった翌年の1339年に死去。五十二歳。 |
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| 野ざらし紀行 八 | ||||
| 近江路に入って美濃へ、不破の関、大垣 |
| 次 前 上 下 |
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| 大和より山城を経て、近江路に入て美濃に至る。今須・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武が云ける「義朝殿に似たる秋風」とはいづれの所か似たりけん。我も又、 | 大和から山城を経て、近江路に入り、美濃に至る。今須・山中を過ぎたところに、いにしえの常磐御前の墓がある。伊勢の荒木田守武が句に詠んだ「義朝殿に似たる秋風」の句の、義朝と秋風とは、どこがどう似ているのだろうか。私は私なりに次の一句を吟じて、 | |||||
| _義朝の心に似たり秋の風 | 枯葉を払いながら、もの淋しく吹き荒(すさ)ぶ「秋風」は、頼りとした譜代の家来に殺された義朝の、哀れの情念と通じるものがあることだよ。 | |||||
| 不 破 | 不破の関跡で一句詠んで | |||||
| _秋風や藪も畠も不破の関 | 秋風寄せる中山道から不破に掛かると、「不破」を冠して手堅く守った関所も、今は、跡形もなく、その身を、藪や畠に委ねるばかりの有様となっていた。 | |||||
| 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ければ、 | 大垣に泊まった夜は、朋友の木因の家を宿にした。武蔵野を出る時、野ざらしも覚悟し、「野ざらしを心に風のしむ身かな」を矢立て初にしての旅だったので、 | |||||
| _死にもせぬ旅寝の果よ秋の暮 | どうやら、道中、死にもせず大垣の友の家にたどり着いたと、感慨も一入(ひとしお)で迎えた秋の夕暮れであるよ。 |
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| 【参考資料】 桑名への途次、多度権現で詠んだ句 | ||||||
| 又いかなる時にか侍りけんたどの権現を過るとて 宮人よ我名を散らせ落葉川 (笈日記) (宮人よ、川が落葉を掃き流すように、私の名が見えるこの落書きも川に流し、 散らせてしまってくれないか) |
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| 「桜下文集」の編者木因が、本句の初案にあたる「宮守よわが名を散らせ木葉川」が詠まれた経緯について、次のように記している。 | ||||||
| 伊勢の国多度権現のいます清き拝殿の落書。 武州深川の隠泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召され候へ。伊勢人の発句すくはん落葉川 木因 右の落書をいとふのこころ 宮守よわが名を散らせ木葉川 桃青 |
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| [語 釈] | ||||||
今の奈良県から、京都府の南部を経て、近江路に入り、岐阜県の南部に至る。「近江路」は、三条大橋から柏原宿までの区間、中仙道と重複する。その間、大津宿、草津宿、守山宿、武佐宿、愛知川宿、高宮宿、鳥居本宿、番場宿、醒井宿の九つの宿があった。 |
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「今須(います)」は中山道の宿場町で、不破の関の西、滋賀との境界近くに位置する。山中は、今須のやや東。 |
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「常磐」は、もと近衛天皇の皇后九条院の雑仕で、源義朝の妻。源義経の母。義朝が平治の乱に敗死後、一時、今若、乙若、牛若の三子とともに大和に身を隠すが、子の命を救うために京都に引き返し、平清盛に付き従う。後、藤原長成に再嫁。芭蕉が墓参した常磐の塚は、現在の関が原町にある。死因については山中で賊徒に殺されたとの言い伝えがある。「源義経物語」参照。 |
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荒木田守武。1473〜1549。俳諧連歌師。伊勢神宮の神官荒木田守秀の九男として生まれ、宗祇に連歌を学ぶ。後、独吟「守武千句」を成すなど俳諧連歌の確立に努め、山崎宗鑑とともに「俳諧の祖」とされる。 |
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荒木田守武の独吟「守武千句」中にある次の付句を指す。 月見てや常磐の里にかかるらん (月を見ながら歩いていると、常磐の里を通り掛かった) 義朝殿に似たる秋風 (常磐の里に寄せる秋風なら、「常磐」御前に心を寄せた義朝殿と似ている) |
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義朝は、1156年の保元の乱で平清盛とともに後白河天皇方について父の軍を主力とする崇徳上皇方を破り、その三年余後、藤原信頼と平治の乱を起こすが、平清盛のために破れ、東国に逃れる途中、尾張で譜代の家来に謀殺された。 芭蕉は、無念にも、頼りにした譜代の家来長田忠致に殺された「義朝の心」を、物淋しく吹き荒(すさ)ぶ「秋風」と似ている、と見たのだろう。 |
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歌枕。徳川家康の東軍と石田三成の西軍が戦った関が原にあり、古代、畿内防衛の為、伊勢の「鈴鹿の関」、越前の「愛発(あらち)の関」とともに設置された「三関」の一つ。平安京遷都後は、愛発関を外し逢坂関または勢多関を加えて三関と言ったが、平安期の内に三関ともに廃止されている。白河の関、勿来関、念珠関についても「三関」の称がある。 |
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谷木因(たにぼくいん)。大垣船町の船問屋に生まれる。芭蕉とは京都北村季吟の相弟子で朋友。芭蕉は、大垣で「おくのほそ道」の旅の疲れを癒し、元禄二年九月、木因亭前から舟で大垣を立った。舟には、如行などの門人も乗り込んで三里見送り、木因は、長島まで見送って送別の句を吟じた。 六日 同。辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遅シ。七左・由軒来テ翁ニ遇ス。(曽良随行日記) ばせを、伊勢の国におもむけるを舟にて送り、長島といふ江に寄せて立ち別れし時、 荻伏して見送り遠き別れ哉(木因) |
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| 野ざらし紀行 九 | ||||
| 桑名、熱田、名古屋 |
| 次 前 上 下 |
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| 桑名本当寺にて | 桑名本当寺(本統寺)にて | |||||
| _冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす | 千鳥を聞きながら、雪中に牡丹とは、なかなか見られない光景であるよ。今の今まで、牡丹とくればほととぎす、と思っていたのに。 | |||||
| 草の枕に寝あきて、まだほの暗きうちに浜のかたに出て、 | 旅寝にあきて、まだほの暗いうちに浜辺に出かけて行って、 | |||||
| _明ぼのや白魚白きこと一寸 | 白みはじめた伊勢の浜辺に、幼い白魚が一寸ほどの生涯を終えて、白く横たえているのは、神々(こうごう)しくも、美しくも見えるものであるよ。 | |||||
| 熱田に詣 | 熱田神宮に参拝する | |||||
| 社頭大いに破れ、築地は倒れて叢に隠る。かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。蓬・忍、心のままに生たるぞ、中々にめでたきよりも心とどまりける。 | 社殿の周囲はたいそう荒廃し、築地は倒れてくさむらに隠れる有様である。あちらに縄を張って末社の跡地をしるし、こちらには石をすえてその神に見立てている。よもぎや、しのぶ草が、自由に広がり生えているのが、かえって、りっぱな佇まいであるよりも、心がひきつけられる。 | |||||
| _しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 [熱田で] |
熱田神宮に参拝したのだが、荒廃をつくして、むかしを想うよすがの、しのぶ草まで枯れていたよ。帰りに、茶店に立ち寄って、時の移りを儚く想いながら餅を食べたことである。 | |||||
| 名古屋に入(いる)道の程風吟す | 名古屋に入る道すがら、句を詠んで | |||||
| _狂句木枯の身は竹斎に似たる哉[資料] [名古屋で] |
木枯らしに吹かれ、あちらへこちらへと、狂句を吟じながら漂泊を続ける私の身の上は、かの竹斎と似ていることであるよ。 | |||||
| _草枕犬も時雨るか夜の声 [名古屋で] |
時雨の夜の静けさを破って、犬の声が聞こえてくる。あの犬も、仮寝のあわれを嘆いているのだろうか。 | |||||
| 雪見に歩きて | 雪見に歩いて | |||||
| _市人(いちびと)よ此笠売らう雪の傘 [名古屋で] |
わたしのこの破れ笠も、雪をかぶるとなかなか趣があってよいものです。町の人、よろしかったら、わたしと旅寝を共にしてきたこの笠を売りますよ。 | |||||
| 旅人を見る | 旅人を見る | |||||
| _馬をさへながむ(詠)る雪の朝哉 [名古屋に入る前に、熱田で] |
一面の新雪に朝日がきらめいて、あまりに美しいものだから、通りがかりの旅人、そして馬さえも、この景色の中に詠み入れてしまうしまことだ。 | |||||
| 海辺に日暮して | 海辺に日が暮れて | |||||
| _海暮れて鴨の声ほのかに白し [名古屋からの帰りに、熱田で] |
宵やみの海辺に淋しくたたずんでいると、さざなみの音のかなたより、夜の入りから取り残されたように、鴨の鳴き声がほの白く聞こえてくるよ。 | |||||
| 【参考資料】 芭蕉が熱田で詠んだ句(作句順に表示) | ||||||
| (1)「野ざらし紀行」で取り上げていないが、芭蕉は、熱田到着の日、止宿した桐葉亭における句会で、次の発句を詠んでいる。連衆は、芭蕉、桐葉、東藤、叩端、如行、工山。芭蕉は、共に旅した草鞋と笠を海に捨てんとまで叙し、桐葉に深い信頼を表意した。 旅亭桐葉の主、志浅からざりければ、しばらく留まらむとせしほどに 此海に草鞋捨てん笠時雨 芭蕉翁 剥くも侘しき波のから蠣 桐葉 (以下略) (六吟表六句歌仙。東藤編「熱田皺筥物語」<元禄八年跋>) |
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| (2)次は、(1)の翌日、閑水亭で巻いた四吟一巡歌仙の発句。連衆は、芭蕉、閑水、東藤、桐葉。「熱田皺筥物語」に、本歌仙が、(1)の翌日に巻かれたとして「次の日」の注を記す。 馬をさへ詠る雪の朝かな 翁 木の葉に炭を吹おこす鉢 閑水 (以下略) (四吟一巡歌仙。「熱田皺筥物語」) |
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| (3)熱田神宮に参詣して詠んだ発句で、これに、桐葉が脇句を付けている。 熱田に詣 しのぶさへ枯て餅買ふやどり哉 翁 皺び付したる根深大根 桐葉 (発句・脇。「熱田皺筥物語」) |
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